の兄貴ですよ」
「そうだ」
「もう少し歩兵を尾《つ》けてみましょうか」
「まず昼間で工合《ぐあい》が悪いが、もう少し追ってみろ」
 渡しが出るよう、と呼ぶ声におどろかされて、亀吉は怱々に堤下へ駈けて行くと、半七はあき茶屋へはいって煙草を一服吸った。もうこっちの物だと云うような軽い心持になって、彼は堤のまんなかを飛んでゆく燕《つばめ》の影を見送りながら、ひとりで涼しそうにほほえんだ。
 歩兵隊の髪切りは、猿でなく、狐でなく、豹でなく、人間の仕業であろうと、半七は推測した。もし人間であるとすれば、第一に疑うべきは鮎川丈次郎と増田太平の二人である。ほかの九人はなんにも心あたりが無いと云うにも拘らず、この二人は獣のようなものに襲われたと云っている、或いはこの二人がほかの九人の髪を切って、その疑いを避けるために自分自身の髪をも切って、まことしやかにいろいろのことを云い触らしているのかも知れないと、彼は思った。
 そこで鮎川や増田がなぜそんなことをしたか。それは単なるいたずらでない、自分たちの意趣遺恨でもない、恐らく何者にか頼まれたのであろう。彼等は何者にか買収されて、歩兵隊の威光と信用とを傷つけるために、こんな悪戯《いたずら》めいた事を続行したらしい。騒動があまり大きくなったので、この頃はしばらく中止しているが、あわ好くば小隊全部の髪を切ってしまうつもりかもしれない。
 藤屋のお房との関係から、半七は先ず鮎川に疑いをかけた。茶屋女などに関係すれば、金につまる。金につまれば何をするか判らない。その推測が適中して、きょうのドンタクに外出を許された彼は、この向島の小料理屋でどこかの侍と密会している。お房の兄の米吉もその間に立って、金銭取引の中継ぎをしているらしい。ここまで判れば、この一件の解決は時間の問題に過ぎないと、半七は多寡をくくってしまったのである。
 まだ残っているのは、代地と金杉の押込み一件で、髪を切られた者と、髪を切っている者と、それに何かの関係があるか無いか、その解決は幸次郎の報告を待つのほかはなかった。
 それからそれへと考えながら、半七はあき茶屋を出て吾妻橋の方角へ引っ返すと、日ざかりの暑さはいよいよ夏らしくなったので、彼は葉桜の下を択《よ》って歩いた。水戸の屋敷の大きい椎《しい》の木がもう眼の前に近づいた頃に、堤下の田圃で泥鰌《どじょう》か小鮒をすくっている子供らの声がきこえた。
「やあ、ここに人が死んでいる」
「死んでいるんじゃあない。寝ているんだ」
 その声が耳にひびいて、半七は堤の上から覗いてみると、堤の裾《すそ》の切株に倚《よ》りかかって、一人の男が寝ているらしかった。
「生酔《なまよい》だな」と、半七は思った。
 それでも念のために、彼は堤を降りて、その男の枕もとへ近よると、男は堅気《かたぎ》の町人とも遊び人とも見分けの付かないような風体で、いが栗頭が蓬々《ぼうぼう》と伸びているように見えた。彼はたしかに酒に酔って倒れていたのである。
「もし、おまえさん。まっ昼間から何でこんな所に寝ているのだ」と、半七は近寄って揺りおこした。
 他愛なく眠っているようでも、どこか油断が無かったらしく、揺り起こされて男はすぐにはっ[#「はっ」に傍点]と眼をあいた。彼は自分の前に立っている半七を見て、俄かに起き直って衣紋《えもん》をつくろった。そうして、無意識のように両方の袖口を引っ張った。それが法衣《ころも》の袖をあつかうような手つきであると、半七は思った。
「おまえさんは坊さんかえ」と、半七は訊いた。
「なに、そうじゃあねえ」と、彼は少し慌てたように答えた。「おらあ職人だ」
「めずらしい職人だな。そんな頭で出入り場の仕事に行くのか」
「喧嘩のもつれで、髷を切ったのだ。毛の伸びるまでは、仕事にも出られねえので、よんどころなしにぶらぶらしているのよ」
 彼は三十前後の蒼黒い男で、どうも破戒の還俗僧《げんぞくそう》らしいと半七は鑑定した。彼は半七の相手になるのを避けるようにわざとらしく欠伸《あくび》をして、眼をこすりながら歩き出そうとすると、ふところから重い財布がずしりと地に落ちた。彼はあわてて拾おうとすると、半七はその手をおさえた。
「おい、待ってくれ。落とし物はよっぽど重そうだな。おれに見せてくれ」
「見せてくれ……」と、男は眼をひからせて半七を睨んだ。「ひとの懐中物をあらためてどうするのだ。おめえは巾着切りか、追剥ぎか」
「追剥ぎはそっちかも知れねえ」と、半七は笑った。「まあ、見せろよ」
「てめえたちに見せるいわれはねえ」と、男は半七の手を振り切って、財布を自分のふところへ捻じ込んだ。
「ぬすびとの昼寝ということもある。そんなに重そうな財布をかかえながら、往来に寝込んでいるから調べるのだ。おれが調べるのじゃあねえ。この十手が調べ
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