全部の面目にも関し、さらに公儀の御威光にもかかわる事であると、根井は云った。さなきだに余り評判のよくない歩兵隊であるから、こんな事が出来《しゅったい》すると世間では尾鰭《おひれ》をつけていろいろの悪い噂を立てる。小隊長の根井も心配して、なんとか早くその正体を見あらわしたいと焦《あせ》っているのも無理はなかった。
「まったく困ったことでございます」と、半七も云った。「わたくし共の手に負えることだかどうだか判りませんが、まあ精々働いて見ましょう」
「では、長屋の内部をひと通り見てくれ」
 根井は半七を案内して、第二小隊の長屋へ連れて行くと、今は調練の時刻であるので、小隊全部は練兵所へ出ていて、広い長屋に人の影は見えなかった。長屋には台所が付いていて、台所の外には新らしく掘られたらしい井戸があった。大きい炊事場は別の所にあって、歩兵が当番で炊事を受け持ち、それを各隊の長屋へ分配するので、ここの小さい台所はめいめいが水を飲んだり、顔を洗ったりする場所に過ぎないと、根井は説明した。
 長屋の内は一棟を二つに仕切って、ふち無しの琉球畳を敷きつめ、板戸の戸棚にはめいめいの荷物が入れてあるらしかった。元来が一種の道場のような伽藍洞《がらんどう》の建物であるから、別に半七の注意をひくようなものも見いだされなかった。彼はここを出て、さらに長屋の周囲を一巡した。
 その当時の内神田はこんにちの姿とまったく相違して、神保町《じんぼうちょう》、猿楽町《さるがくちょう》、小川町のあたりはすべて大小の武家屋敷で、町屋《まちや》は一軒もなかったのである。小川町の歩兵屯所も土屋|采女正《うねめのしょう》と稲葉|長門守《ながとのかみ》の屋敷の建物はみな取り払われて、ここに新らしい長屋と練兵の広場を作ったのであるが、ある一部には昔の庭の形が幾分か残されている所もあった。第二小隊の井戸のそばには築山があった。この築山も昔は相当の手入れをして、定めて風致あるものと察せられたが、一年あまりの後には荒れに荒れて、六、七本の立ち木がおい茂っているばかりであった。そのなかに八重桜の大樹が今を盛りに咲き乱れているのを、風流気の乏しい半七も思わず見あげた。
「よく咲きましたね」
「むむ、よく咲いた」と、根井も見あげた。「伐るのも惜しいのでこうして置くが、桜もこんなところで咲いては張り合いがあるまい。なにしろ殺風景の世界だからな」
 二人は笑いながら元の面会所へ帰った。ここで何かの打ち合わせをして、半七は屯所の門を出ると、ひとりの若い女の姿が眼の前に見えた。女は門番と何か立ち話をして立ち去るらしい。よく見ると、それは湯島天神下の藤屋という小料理屋の女中であった。
「おい、おい、お房。どこへ行くのだ」
「あら、親分さん」と、お房は会釈《えしゃく》した。「よいお天気で結構でございます」
「おめえは今そこの番人となんの内証ばなしをしていたのだ。お馴染《なじみ》かえ」
「ええ、少し用があって……。これで三度も足を運ぶんですけれど……」
「そんなに逢いてえ人があるのか」と、半七は笑った。「もっともひと口に茶袋とも云えねえ。あの中にもなかなか粋な兄《あに》いがまじっているからな」
「あら、御冗談を……。そんなのじゃあ無いんですよ。おかみさんにゃあ叱られるし、ほんとうに困ってしまうんですよ」と、お房は顔をしかめた。
「ははあ、勘定取りかえ。あんまりいい役じゃあねえな」
「いい役にも、悪い役にも、まったく困るんですよ」と、お房は繰り返して愚痴らしく云った。
 この正月のはじめに、馴染の歩兵が四人連れで藤屋へ飲みに来たが、帰る時になって勘定を貸してくれと云う。そのときに座敷を受け持っていたのは女中のお房で、何分にも相手は歩兵であり、春早々から乱暴などを働かれても困る。殊にいずれも馴染の顔であるから、お房も無下《むげ》にことわり兼ねた。その勘定をあしかけ三月《みつき》の今になっても払ってくれないと云うのである。
「おめえの一存で貸したのかえ」と、半七は訊《き》いた。
「帳場へ行っておかみさんに話すと、おまえ大丈夫かえと云うんです。ええ大丈夫でしょうと、あたしが云ったので、おかみさんも承知して貸すことになったんです。それが今まで埓《らち》が明かないので、おかみさんはあたしを叱って、おまえが請け合ったんだから、催促して取って来いと云う。そこで、このあいだから催促に来るんですけれど、今は調練の最中だから面会は出来ないの、きょうはドンタクで外出したのと云って、いつでも逢わせてくれないんです」
「そりゃあ困るな」
 歩兵の連中は門番にたのんで、藤屋の女が来たならば追い返してくれと云ってあるに相違ない。お房が幾たび足を運んでも、おそらく埓は明くまいと思った。
「第二小隊の人達は割合いにおとなしいようですけれど、や
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