業らしいと云うことになりました。屯所の方でも、こんな事はなるべく秘密にして置きたかったのでしょうが、人の口に戸は立てられません。殊にこんな噂は猶さら広がり易いもので、忽ち世間の評判になってしまいました。ところが、おかしいことには、今度の髪切りは狐でもなく、猿でもなく、豹《ひょう》の仕業だという噂でした」
 髪切りを猿や狐の仕業というのは、昔の人としてさもありそうな事であるが、豹というのは余りに奇抜であった。
「豹の仕業……」とわたしは首をかしげた。「それはどういう訳ですか」
「はは、今の人にはお判りのないことで……」と、半七老人は笑った。「幕府の歩兵には、豹だの、茶袋だのという綽名《あだな》が付いていました。将棋の駒の歩《ふ》は歩兵《ふひょう》で、つまりは歩兵《ほへい》の意味です。そこで幕府の歩兵を将棋の歩になぞらえて歩《ひょう》といい、それが転じて豹になったのです。歩兵は紺木綿の服を着ていましたが、夏の暑いあいだは茶色の麻を着ていたので、茶袋という名を付けられたわけで……。豹にしても、茶袋にしても、あんまり有難い名前じゃありません。これを見ても、その不人気が思いやられます。その豹の髪を切ったのだから、やっぱりお仲間の豹だろうという、いや、どうも悪い洒落《しゃれ》です。
 もう一つ、豹と云い出したわけは、二年ほど前に西両国で豹の観世物を興行した事がありました。珍らしいので、一旦は流行りましたが、そう長くは続かないので、後には両国を引き払って、諸方の宮地や寺内で興行したり、近在の秋祭りなぞへ持ち廻ったりしていました。その豹が逃げたと云うので、いろいろの噂が立っている。王子辺では子供が三人|啖《く》い殺されたなぞと云う。もちろん取り留めもない事なのですが、そんな噂のある矢さきへ今度の髪切り騒ぎが出来《しゅったい》したので、歩兵の豹から思いついて、恐らくその豹の仕業だろうと云うことになったのです。今から考えれば、ばかばかしいことですが、その当時にはまことしやかに吹聴《ふいちょう》する者がある、又それを信用する者がある。まったく面白い世の中でした」

     二

 読者を焦《じ》らすようであるが、ここで私もすこし困った。と云うのは、半七老人も余り多くの酒を飲まないで、女中がもう飯を運んで来た。二人はだまって飯を食ってしまった。そうなると、ここに長居も出来ない。おまけに老
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