負け公事《くじ》になりました。その以来、名主と百姓とのあいだの折り合いが悪く、百姓方の組頭の幸七が急病で死んだのは、名主が毒殺したのだと云うのです。そこで、妹のおたかは兄のかたき討ちを思い立って、女ひとりで江戸へ出て、かのお玉ヶ池の千葉周作の家《うち》へ下女奉公に住み込んで、奉公のあいだに剣術の修行をしていました。その叔父の名は忘れましたが、これは国許で医者をしていたそうです。その叔父が十一月なかばに江戸へ出て来て、かたきの与右衛門が年貢納めに江戸へ来ると云うことを教えたので、おたかは主人から暇を取り、与右衛門が天王橋を通るところを待ち受けて、叔父の手引きで本意を遂げました。
しかし相手の与右衛門が確かに幸七を毒殺したという証拠が薄いので、このかたき討ちの後始末はなかなか面倒になりました。それにしても、女が往来で兄のかたきを討ったと云うので、その当座は大評判、瓦版の読売にもなったのです。こんにちの号外と同じことで、瓦版はずいぶん売れました。
今もその瓦版の読売が面白そうに呼びながら、助惣の店の前を通りかかると、ひとりの若い男が駈けて来て、引ったくるように一枚の瓦版を買って、往来のまん中に突っ立ったままで、一心不乱に読んでいる。それは年ごろ十八九の小粋《こいき》な男で、襟のかかった半纏《はんてん》を着ていましたが、こんなことが好きなのか、よっぽど面白いのか、我れを忘れたように一心に読んでいるのです。わたくしも商売柄、こんな事にも眼がつきますから、これには何か仔細がありそうだと思いましたが、別にどうすると云うわけにも行きません。買い物の助惣焼を小風呂敷につつんで店を出ると、そこへ通りかかって、やあ、親分と声をかける者がありました。
見ると、それはこの近所に住んでいる馬秣屋《まぐさや》の亭主です。この時代には普通に飼葉屋《かいばや》とか藁屋《わらや》とか云っていましたが、その飼葉屋の亭主の直七、年は四十ぐらいの面白い男でした。御承知の通り、飼葉屋というのは方々の武家屋敷へ出入りして、馬秣を納めるのが商売です。わたくしは前からこの男を識っているので、二つ三つ世間話なぞをして別れました。それから四谷の方へ行こうと思って、麹町四丁目の辺まで行きかかると、あとから直七が追って来ました。直七には連れがある、それは熱心に瓦版を読んでいた若い男でした。
直七はわたくしを呼びとめ
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