ません。ゆうべも化け物屋敷に何かありましたそうで……」
「化け物屋敷……。そりゃあ何処だね」
「すぐそこのあき屋敷でございます」
「化け物でも出るのかえ」
女房の話によると、その屋敷には小池という御家人が住んでいた。屋敷は小さいが、地所は四五百坪ある。その主人は道楽者で、歳の暮れの金に困った結果、懸け取りに来た呉服屋の手代を絞め殺して、懸けさきから取りあつめた十両ほどの金をうばい取った。そうして、その死骸を裏手の畑に埋めて置いたことが露顕して、本人は死罪となったが、屋敷はそのまま残っている。こういう空屋敷には怪談が付き物で、殺された手代の幽霊が出るとか、鬼火が燃えるとかいう噂がある。その化け物屋敷の前を、ゆうべ近所の者が通りかかると、屋敷の奥で女の泣き声が微《かす》かにきこえたので、それを聞いた者は蒼くなって逃げ出したと云うのであった。
「ゆうべの何どきだね」
「まだ五ツ(午後八時)を少し過ぎた頃だそうですが、ここらは何分にも寂しゅうございますので……」
「いくら日が詰まっても、幽霊の出ようがちっと早いね」と、半七は笑った。「その屋敷はよっぽど前から空《あ》いているのかね」
「もう三年ぐらいになりましょう」
「屋敷のなかは荒れているだろう」
「ええ、もう、荒れ放題で、家は毀《こわ》れる。庭には草が蓬々と生えている。あんな無気味な屋敷は早く立ち腐れになってしまえばいいと、近所でもうわさをして居ります」
「そうだ。幽霊に貸して置いたのじゃあ店賃《たなちん》も取れず、早く毀れてしまった方がいいな」
半七は茶代を置いて烏茶屋を出ると、この頃の日はもう傾きかかって、何処からか飛んで来る落葉がばらばらと顔を撲《う》った。半七は肩をすくめながら歩いた。女房に教えられた化け物屋敷の前に立つと、もとより小さい御家人の住居であるから、屋敷といっても恐らく五間《いつま》か六間《むま》ぐらいであろうと思われる古家で、表の門はもう傾いていた。生け垣の杉も枯れていた。
裏口へ廻って木戸を押すと、錠も卸されていないと見えて、すぐに明いた。成程そこらは一面の草叢《くさむら》であったが、注意して見ると、その草のあいだには人の踏んだ跡がある。この化け物屋敷には幽霊のほかに出入りする者があるらしいと、半七は肚《はら》のなかで笑った。閾《しきい》のきしむ雨戸をこじ明けて、水口《みずくち》から踏み込むと、半七は先ず第一の獲物《えもの》を発見した。それは野暮な赤い櫛で、土間に落ちていた。
それを拾って袂《たもと》に入れて、半七は台所にあがった。家内はもう薄暗いので、雨戸を明け払って更に引き窓をあけた。久しく掃除をしないので、板の間《ま》は一面のほこりに埋められている。そのほこりに幾つもの足跡が乱れて残っているのを透かして視ると、それは男と女の足跡であるらしかった。何者かが忍んでいるかも知れないと、用心しながら奥へ入り込んだが、ただ一度、大きい鼠に驚かされただけで、鎮まり返った空家《あきや》のうちには人の気配《けはい》もなかった。
奥には茶の間《ま》らしい六畳の間がある。つづいて八畳の座敷である。茶の間へはいって、押入れの破れ襖《ぶすま》をあけると、押入れのなかも埃《ほこり》だらけになっていたが、下の板の間には隅々だけを残して、他に埃のあとが見えない。誰かが掃き出したのではなく、そこに人間が這い込んでいたのではないかと想像された。
半七は湿《しめ》っぽい畳の上に俯伏して、犬のように嗅《か》ぎまわると、そこには微かに糠《ぬか》の匂いがあった。糠がこぼれているらしいと、半七はひとりでうなずいた。米屋の奴らが、おさんかお種をここへ連れ込んで、押入れの中に監禁して、その泣き声が表へ洩れたのであろう。土間に落ちていた赤い櫛といい、その証拠は明白である。彼は更に家内を見まわったが、ほかにはこれぞという獲物はなかった。そのうちに日はだんだんに暮れて来たので、あかりを持たない半七は思い切ってここを出ると、表はもう暗くなっていた。
谷町の下総屋を目ざして行くと、途中で二人連れの男に逢った。店屋の灯のあかりに透かしてみると、それは彼《か》の為吉と米搗《こめつ》きの藤助であるらしい。この二人が連れ立って湯屋へでも行くのかと見送っていると、不意に自分の袂をひく者がある。見かえると、それは庄太であった。
「親分」と、庄太はささやいた。「為吉と藤助がどこかへ出かけます。尾《つ》けて見ましょうか」
「むむ。おれも行こう。悪くすると、為吉を誘い出して殺《ば》らすのかも知れねえ」
「そりゃあ油断が出来ねえ」
四
半七と庄太は見えがくれに、かの二人のあとを慕ってゆくと、二人は権田原の方へむかった。風が寒いせいでもあろう、二人は黙って俯向いて歩いていた。藤助は提灯を持っていた。米屋商売であるから下総屋としるした提灯を持つべきであるのに、今夜の藤助は無じるしの提灯を持っている。それが半七の注意をひいて、彼は庄太に何事をかささやくと、庄太はうなずいた。
「成程、こりゃあいよいよ油断が出来ねえ」
その頃の権田原は広い野原で、まだ枯れ切らない冬草が、武蔵野の名残りをとどめたように生い茂って、そのあいだには細い溝川《どぶがわ》が流れていた。月は無いが、空は高く晴れた宵で、無数の星が青白く光っていた。時々に吹きおろして来る寒い風におどろかされて、広い原一面の草や芒《すすき》が波を打つようにざあざあと鳴った。それが足音をぬすむには都合がいいので、半七と庄太は相当の距離を取って二人のあとに続いた。
原のまん中には何百年の歴史を知っているような大きい榛《はん》の木が突っ立っている。それは夜目にも窺われるので、為吉と藤助はその大樹を目あてに細い道を急いで行くらしかったが、やがてそれも眼の前に近づいた時に、忽ちに帛《きぬ》を裂くような女の悲鳴がきこえた。
「あれ、人殺し……」
つづいて男の叫ぶ声もきこえて、男と女が暗い草原をころげるように逃げて来るらしい。こうなると、半七も庄太も聞き捨てにはならないので、ともかくも声のする方角へ駈けてゆくと、ひとりの男が庄太に突きあたった。ひとりの女は半七に突きあたって倒れた。榛の木の下では男の笑う声がきこえた。
この不意の出来事におどろかされて、藤助と為吉は暫く其処に立ち停まっているらしいので、半七は見かえって声をかけた。
「おい、おい。その提灯を貸してくれ」
藤助はまだ躊躇しているので、庄太はじれて又呼んだ。
「おい、下総屋の奉公人。早く提灯を持って来い」
下総屋の名を呼ばれて、藤助ももう逃げることも出来なくなったらしく、提灯を持って近寄って来た。その灯に照らし出されたのは、二十一二の町人風の男と、新宿あたりの女郎らしい二十歳《はたち》前後の仇めいた女であった。
「駈け落ち者だな」と、庄太は云った。「それにしても、人殺しとはどうしたのだ」
「あすこに……」と、男は榛の木のあたりを指した。「不意に出て来て……斬るぞと云いまして……」
半七は、藤助の提灯を取って、すぐに木の下へ駈けて行ったが、そこにはもう人の影も見えなかった。事面倒と見て、早くも姿を隠したらしい。面倒は彼ばかりでなく、半七も同様であった。折角|尾《つ》けて来た為吉と藤助の二人を差し置いて、差しあたりはこの新らしい二人を詮議しなければならない事になったのである。彼は男と女をまねいて、榛の木の下まで連れてゆくと、庄太も他の二人も付いて来た。
「おめえ達はまったく駈け落ち者か」と、半七は二人に訊いた。「おれは御用聞きの半七だ。正直に云え」
御用聞きと名乗られて、二人はふるえた。抱えの遊女や芸妓を連れ出した場合、悪く間違えば拐引《かどわかし》ということになる。かどわかしは重罪である。それが御用聞きに出逢ったのであるから、かれらが恐怖にとらわれたのも無理はなかった。それを察して、半七はしずかに云い聞かせた。
「いくら商売でも、おれも邪慳《じゃけん》な事をしたくねえ。なんとか穏便に内済の法もあろうと云うものだ。なにしろ、おめえ達はどこの何という者だ」
かれらが恐るおそる申し立てるところによると、男は代々木の多聞院門前に住む経師屋《きょうじや》のせがれ徳次郎、女は内藤新宿甲州屋の抱え女お若で、ままならぬ恋の果ては死神《しにがみ》に誘われて、お若は勤め先をぬけ出した。二人はこの権田原の榛の木の下を死に場所と定めて、闇にまぎれて忍んで来ると、かれらよりもひと足先に来ている人があった。その人は突然に彼等をおびやかして、斬るぞと呶鳴った。死にに行く身にも恐ろしい犬の声――突然斬ると云われて、彼等はやはり恐ろしくなった。その一刹那、死ぬ覚悟などは忘れてしまって、二人は思わず人殺しの悲鳴をあげて逃げた。
その話を聴き終って、半七はうなずいた。
「むむ、判った、判った。だがまあ、死んじゃあいけねえ。おれもここへ来合わせたのが係り合いだ、なんとか話を付けてやるから、今夜はおとなしく帰れ。といって、無分別者をこのまま追っ放すわけにゃあ行かねえ。庄太、御苦労でも此の二人を甲州屋まで送ってくれ」
「だが、こっちは好うござんすかえ」と、庄太は不安らしく云った。
「まあ、こっちは何とかする。なにしろ此の二人を無事に帰さなけりゃあならねえ」
「ようがす。じゃあ、行って来ます。さあ、親分がああ仰しゃるのだから、二人共ぐずぐず云わねえで早く来ねえ。世話を焼かせると縛っちまうぞ」
嚇されて、二人も争う術《すべ》がなかった。かれらは権田原心中の浮き名を流す機会を失って、おめおめと庄太に追い立てられて行った。
これで先ず一方の埓は明いたので、半七は更に為吉と藤助の詮議に取りかかろうとして、持っている提灯をこちらへ振り向ける途端に、今度は為吉が悲鳴をあげて倒れた。はっ[#「はっ」に傍点]と思って透かして視ると、抜き身を引っさげた一人の男が芒《すすき》をかき分けて一散に逃げ去った。それを追っても間に合わないと見て、半七はそこに突っ立っている藤助の腕をつかんだ。
「親分、わたしをどうするのです」と、藤助は慌てたように云った。
「どうするものか。さあ、白状しろ」
「わたしはなんにも知りません」
「空《そら》っとぼけるな。この野郎……」と、半七は叱り付けた。「貴様は今夜この為吉を殺《ば》らすつもりでここへ連れ出したのだろう」
「飛んでもねえことを……。わたしはただ、旦那の指図でこの為さんをここまで案内して来たのです」
「なんのために案内して来た」
「この大きい木の下に待っている人があるから、その人に逢わせてやれと云うのです」
「待っている人と云うのは誰だ」
「知りません。逢えば判ると云いました」
「子供のようなことを云うな。狐にでも化かされやしめえし、大の男二人が鼻をそろえて、訳もわからずに野原のまん中へうろうろ出て来る奴があるものか。出たらめもいい加減にしろ」
腕を捻じあげられて、藤助は意気地も無しに泣き叫んだ。
「堪忍して下さい、堪忍してください」
相手が案外に弱いので、半七はすこし躊躇した。こいつは本当に弱いのか、それとも油断をさせるのか、その正体を見定めかねて、思わず掴んだ手をゆるめると、藤助は草の上にぐたぐたと坐った。
「親分。わたしは全くなんにも知らないのです。御承知かも知れませんが、この為さんの妹がゆうべ見えなくなってしまいました。家《うち》の旦那も心配して、けさから方々を探し歩いていましたが、午過ぎになって帰って来まして、お種さんの居どころは知れたと云うのです。だが、相手が悪い奴で唯では渡さない。拐引《かどわかし》で訴えれば、一文もいらずに取り戻すことが出来るかも知れないが、そんなことに暇取っているうちに、お種さんのからだに何かの間違いがあっては取り返しが付かない。これも災難と諦めて、いくらかのお金を渡して無事に取り戻した方がよかろう。そこで向うでは十両出せと云う。わたしは五両に負けてくれと云う。押し問答の末に六両に負けさせて来たから、それを持って早く取り戻して来たら好かろうと云うことでした。そこで、
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