したが、九蔵の光国《みつくに》はほんのお附き合いという料簡で出ている。多賀之丞の滝夜叉《たきやしゃ》は不出来、これは散散でしたよ。なにしろ光国が肝腎の物語りをしないで、喜猿の鷲沼太郎とかいうのが名代《みょうだい》を勤めるという始末ですから、まじめに見てはいられません」
老人が得意の劇評は滔々《とうとう》として容易に尽くるところを知らざる勢いであったが、それがひとしきり済むと、老人は更に話し出した。
「あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川|如皐《じょこう》の作で、嘉永四年、猿若町《さるわかまち》の中村座の八月興行で、外題《げだい》は『東山桜荘子《ひがしやまさくらそうし》』といいました。その時代のことですから、本当の佐倉の事件として上演するわけには行きません。世界をかえて足利時代の芝居にしてあるのですが、渡し守甚兵衛と幻長吉が彦三郎、宗吾が小団次、宗吾の女房おみねが菊次郎、いずれも嵌《はま》り役で大評判、八月から九月、十月と三月も続いて打ち通しました。そこで、表向きは足利時代の事になっていますが、下総《しもうさ》の佐倉の一件を仕組んだのは誰でも知っているので、佐倉領のお百姓たちも見物のために江
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