兵太夫は深手ながら息があったので、その始末を云い残して死にました。こうなると、山路郡蔵は重々の悪人で、お家に取っては金蔵破りの盗賊、千右衛門に取っては親のかたきと云うことになります。そこで千右衛門は上《かみ》に願って暇《いとま》を貰い、仇のゆくえを探しに出ました。
 千右衛門は先ず京大坂を探索しましたが、更に手がかりが無いので、東海道の宿々を探しながら江戸へ下《くだ》って来て、去年の夏から一年あまりも江戸市中を徘徊しているうちに、こんにち測らずも此の六道の辻で郡蔵のすがたを見つけたので、すぐに名乗りかけて討ち果たしたと云うのです。普通の喧嘩口論とは違って、千右衛門の申し立ては立派に筋道が立っています。主家の盗賊を仕留め、あわせて自分の親のかたきを討ったのですから、辻番所でも疎略には取り扱いません。それはお手柄でござったと云うので、湯などを飲ませてくれる。金右衛門の一行四人と、荒物屋の女房と柿売りと、みなひと通りの取り調べを受けただけで帰されました。
 これで先ずほっ[#「ほっ」に傍点]として、金右衛門の一行は千駄ヶ谷谷町の下総屋へ尋《たず》ねて行って、今の話などをしていると、やがてこんな噂が耳にはいりました。六道の辻で仇討をした伊沢千右衛門という浪人者は、水野家の辻番所から姿をかくしたと云うのです。この時代の法として、こういう事件のあった場合には、ひと先ずその本人を辻番所又は自身番に留め置いて、その主人の屋敷へ通知すると、主人の方から衣服の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》を持たせて迎えの者をよこす事になっている。そうして、辻番の者にむかって、これは自分の屋敷の者に相違ないことを証明した上で、本人を受け取って行くのです。そこで、千右衛門の申し立てによると、自分は備中松山五万石板倉|周防守《すおうのかみ》の藩中であると云うので、辻番所からはすぐに外桜田の板倉家へ使を出しました。
 その使の帰るのを待つあいだに、千右衛門は失礼ながら便所を拝借したいと云う。油断して出してやると、それぎり帰らない。いずれ屋敷内に忍んでいるに相違ないと、そこらを隈なく詮議したが、遂にその姿は見あたらない。なにしろ場末の屋敷で、その横手は大きな竹藪になっているから、それを潜《くぐ》って逃げ去ったのではないかと云う。その
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