がのそのそはいって来て、低く唸りながらお角に迫って来るのです。これにはお角もおどろきましたが、窓の扉が堅く閉《しま》っていて、どうして明けるのか判らない。入口の扉にもいつの間にか錠がおろしてある。あわててお角は両肌を入れて、部屋じゅうぐるぐると逃げ廻っていましたが、なにしろここへ閉じこめられて逃げ出すことが出来ない。
 こうして一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》ほども過ぎた後に、誰があけたか知らないが、入口の扉が自然にあきました。お角は真っ蒼になって出て来ました。犬もおとなしく付いて来ました。
 お角は黙って帰ろうとすると、島田も出て来ました。二人はやはり黙ったままで神奈川の家《うち》へ帰りました。これはお角ひとりの申し立てで、アグネスも島田も死んでしまったのですから、たしかなことは判りません。一体なんの為にこんな事をしたのか、犬を使ってお角を咬み殺させるつもりか、それとも何かほかに目的があったのか、それらのことも判り兼ねます。アグネスもお角に嫉妬を懐《いだ》いている。島田もほかに情夫《おとこ》があると云うのでお角に嫉妬を感じている。その二人が共謀して、何かお角を苦しめるつもりで、こんな事を企てたらしいと想像するのほかはありません。お角が無事に出て来たので、二人は当てがはずれたかも知れません。いずれにしても、お角は真っ蒼になって怒って、家へ帰るとすぐに島田を殺そうとしたくらいですから、よくよく口惜《くや》しかったに相違ありません。
 三人を殺そうと決心して、お角は一旦江戸へ帰って、国蔵や甚八と打ち合わせをした上で、七月八日に横浜へ引っ返して来ました。勝手を知っているハリソンの家《うち》へ宵から忍び込んで、寝台の下に隠れていて、夜の更けるのを待って先ずハリソンを刺し殺しました。アグネスがおどろいて跳ね起きて、窓をあけて庭へ飛び降りると、お角もつづいて飛び降りた。そのとき例の洋犬が出て来て、本来ならば主人に加勢してお角に吠え付くか咬み付くかしそうなものですが、却ってお角に嗾《けしか》けられて、主人のアグネスに飛びかかって、とうとう咬み殺してしまったというわけです。飼い犬に手を咬まれるとは此のことで、犬はよっぽど、お角になついていたものと見えます。その御褒美に、犬はお角の手から番木鼈《マチン》を貰いました。その毒にあたって斃《たお》れるところを、前に申す通り、眼玉をくり抜いたり、腹を裂いたり、さんざんに斬り刻んで川へ投げ込んだ。犬はお角になついていたが、お角はよっぽど犬を憎んでいたのでしょう。大きい犬の死骸を運ぶのは女の手一つではむずかしい。表に国蔵か甚八が待っていたのだろうと思いますが、二人は知らないと云います。お角も自分ひとりでやったと云っていました。
 さてその翌日は写真屋殺し……。これはもう大抵お判りになっている事と思います。生麦の立場茶屋には国蔵と甚八が待っていて、島田を別の駕籠に乗せて江戸へ送り込みました。島田はモルヒネを飲まされて死んだのです。こんな手数をかけてわざわざ江戸まで運んで来たのは、迂濶《うかつ》なところへ死骸を捨てられないのと、ハリソン夫婦を殺した下手人を島田に塗りつけようとする企らみであったのですが、もう一つには、島田の額に犬という字を書いて、犬のようにして埋めてやりたいと思ったからだと云います。アグネスと島田はともあれ、ハリソンまでも殺したのはちっと判りかねますが、一つ部屋に寝ているハリソンを先に殺してしまわなければ、思うようにアグネスを殺すことが出来ないからだと、お角は云っていました。そうなると飛んだ巻き添えですが、こんな女に係り合ったのが災難と諦めるのほかはありますまい。
 この以上のことはお角もあらわに申し立てません。役人たちも深く立ち入って詮議をしませんでした。吾八も薄々はその秘密を知っていたらしいのですが、これも知らないと云って押し通してしまいました。わたくしにもお話は出来ません」
「それで、お角はどうなりました」
「もちろん命が二つあっても足りない位ですが、女牢に入れられて吟味中、流行の麻疹《はしか》に取りつかれて三日ばかりで死にました。お角にとっては、麻疹の流行が勿怪《もっけ》の幸いであったかも知れません。例の彫り物の写真はヘンリーの方でも要らないというので、町奉行所にそのまま保管されていましたが、江戸が東京とあらたまって、町奉行所の書類いっさいが東京府庁へ引き渡された時に、写真なぞはどう処分されましたか、恐らく焼き捨てられてしまったでしょう。
 コックの富太郎と雇い女のお歌が、主人夫婦の変死について少しも知らないのは可怪《おか》しいと云う者もありましたが、まったく知らないと判って釈《ゆる》されました。二人は夫婦になって、後に西洋料理屋をはじめました。吾八は後に宇都宮吾陽という威《いか》めしい名乗りをあげて、横浜では売り出しの写真師になりました。わたくしもこの人に写真を撮って貰ったことがあります」
 老人は手文庫の底を探って、明治初年の古い写真を出して見せた。



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(五)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年10月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tat_suki
校正:小林繁雄
1999年5月30日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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