長い槍を振りまわして疱瘡神を退治している図で、みんな絵草紙屋の前に突っ立って、めずらしそうに口をあいて其の絵を眺めていたものです。いや、笑っちゃいけない。実はわたくしも口をあいていた一人で、今からかんがえると実に夢のようです。
なにしろ植疱瘡ということが追いおいに認められて来て、大阪の方が江戸よりも早く植疱瘡を始めることになりました。江戸では安政六年の九月、神田のお玉ヶ池(松枝町《まつえちょう》)に種痘所というものが官許の看板をかけました。そういうわけで、その頃から種痘という言葉はあったんですが、一般には種痘と云わないで、植疱瘡と云っていました。さてその植疱瘡をする者がまことに少ない。牛の疱瘡を植えると牛になるという。これもあなた方のお笑いぐさですが、その頃にはまじめにそう云い触らす者が幾らもある。素人《しろうと》ばかりでなく、在来の漢方医のうちにも植疱瘡を信じないで、かれこれと難癖をつける者がある。それですから植疱瘡を嫌う者が多かったんです。外国でも最初のあいだは植疱瘡を信用しなかったと云いますから、どこの国でも同じことだと見えます。
そんなことを云っているうちに、例によってお話
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