いるからであると云う。関口屋でも本当にそれを信じていたわけでも無かったが、ともかくもこの時節だから、いいと云うことは真似るがいいと思って、自分の庭に大きい八つ手の木があるのを幸いに、その葉を折って店の軒さきに吊しておいた。
 翌日の午後、お琴が店へ出てみると、軒の八つ手の大きい葉がもう枯れかかって、秋風にがさがさと鳴っていた。枯れてしまっては呪《まじな》いの効目《ききめ》もあるまいと思ったので、お琴は庭から新らしい葉を折って来て、人に頼むまでもなく、自分がその葉を吊り換えようとする時、ふと見ると古い枯葉には虫の蝕《く》ったような跡があった。更によく見ると、その虫蝕いの跡は仮名文字の走り書きのように読まれた。おそでしぬ――こう読まれたのである。お袖死ぬ――お琴はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
 彼女はお由をそっと呼んで、八つ手の古い葉を見せると、お由もその虫蝕いのような仮名文字を「おそでしぬ」と読んだ。八つ手に虫の付くことは少ない。しかもその枯れかかった葉のおもてに、「お袖死ぬ」という虫のあとを残したのである。
 きのうの今日であるから、お琴は総身《そうみ》の血が一度に凍ったように感じた。

  二

 関口屋の裏には四軒の貸長屋があった。いずれも関口屋の所有で、その奥の一軒には年造という若い大工の独り者が住んでいたが、若い職人であるから、この時節に酒も飲む、夜歩きもする、その不養生《ふようじょう》の祟りで疫病神に見舞われた。かれは夜半《よなか》から吐瀉《としゃ》をはじめて、明くる日の午後に死んだ。
 独り者であるから、仲間の友達や近所の者があつまって葬式《とむらい》を出すことになった。関口屋でも自分の家作内《かさくない》であるから、店の者に香奠《こうでん》を持たせて悔みにやった。
「うちの地面うちへも、とうとうコロリが来た」と、主人の次兵衛も顔をしかめた。
 コロリの伝染することを知っていても、それを予防することを知らないのであるから、近所の人々はいたずらに恐怖するばかりであった。この頃は伝染を恐れて、コロリの死人の家へは悔みや通夜《つや》に行く者が少なくなったが、それでも年造の家には近所の者をあわせて五、六人が集まって、型ばかりの通夜を営んだ。年造のとなりに住んでいるのは、大吉という煙草屋であった。これも若い独り者で、煙草屋といっても店売りをするのではなく、刻み煙草の荷をかついで、諸藩邸の勤番小屋や中間部屋、あるいは所々の寺々などへ売りに行くのである。彼は関口屋の長屋に住んでいるばかりでなく、商売物の煙草を関口屋から元値で卸《おろ》して貰っているので、朝に晩に親しく出入りをしていた。
 大吉と年造とは壁ひとえの相長屋で、ひとり者同士の仲よく附き合っていたので、年造がゆうべから病気に罹《かか》ると、彼は商売を休んで看病した程であるから、今夜の通夜には勿論詰めかけていた。残暑の強い時節といい、閉め込んで置いては疫病の邪気が籠《こも》るというので、狭い家内は残らず明け放してあった。
 その夜の五ツ半(午後九時)頃である。露路のなかに犬の吠える声がきこえるので、大吉は家内から伸びあがって表を覗くと、井戸のそばに白い影が見えた。家内の灯《ひ》のひかりが表まで流れ出ているので、その影の正体もおおかたは判った。それは白地の単衣《ひとえ》を着た少女である。少女は関口屋の裏口に立って、木戸のあいだから内を窺っているらしかった。大吉は自分の隣りに坐っている相長屋の甚蔵の袖をひいてささやいた。
「あの子はどこの子だろう」
 甚蔵も伸びあがって表をのぞくと、犬はつづけて吠えた。少女は犬を恐れるように木戸のそばを離れて、しずかに露路の外に立ち去ったが、草履を穿《は》いていたと見えて、その足音はきこえなかった。
「見馴れない子ですねえ」と、大吉は又ささやいた。
「むむ、ここらの子じゃあ無いようだ」
 とは云ったが、甚蔵は深く気にも留めなかった。大吉はなんだか気になると見えて、そこにある下駄を突っかけて露路の外まで追って出たが、少女の姿はもう見えなかった。
「あの子はどこの子だろう」
 大吉はまだ頻りに考えていたが、他の人々は甚蔵と同様、それに格別の興味も注意もひかなかったので、話はそのままに消えてしまった。流行病《はやりやま》いであるから、あしたは早朝に死体を焼き場へ送る筈であったが、この頃は葬式《とむらい》が多いので棺桶が間に合わない。よんどころなく夕方まで延ばすことにして、係り合いの人々は怖るべきコロリの死体を守りつつ一日を暮らした。
 この日の午後である。三十前後の男が関口屋の店さきに立った。
「ここの裏に年造という大工がいますかえ」
「その年造さんはコロリで死にました」と、店の者が答えた。
「コロリで死んだ」と、その男はすこし慌てたように
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