っていた。殊に先ごろお酉にむかって、酔ったまぎれに、こんなことを云った。
「おれは今、大金儲けが眼の先にぶらさがっているのだ。ここでコロリなんぞになっちゃあ堪まらねえ」
 娘が不意に死んだので、彼はひどく力を落としたらしく、毎日やけ酒を飲んでいた。そうして、関口屋から弔い金をうんと取ってやると云っていた。その掛け合いもどうにか旨くまとまったらしく、この二、三日は機嫌がよかった。
「ここの家《うち》へふだん近しく来る者はねえかね」と、半七は訊《き》いた。
「煙草屋の大さんです」と、お酉は答えた。「色の白い、華奢《きゃしゃ》な人で……。次右衛門さんの口ぶりじゃあ、行くゆくはお由ちゃんの婿にでもするような様子でした。そのほかには大工の年さんという人がときどき来ましたが、この人はコロリで死んだそうです」
「そうかね」と、喜兵衛が口を入れた。「その年さんという人は、二、三日前の晩にたずねて来たようだが……。わたしの店の前を通ったのは、どうもあの人のように思ったが……。それとも人違いかな」
「大さんという煙草屋は、この頃に来なかったかね」と、半七は又訊いた。
「きのうお午過ぎに見えました」と、お酉は云った。「わたしに少し店を頼むと云って、次右衛門さんと大さんと一緒に二階へあがって、暫く話していました」
 半七は二階へあがって見ると、狭い四畳半は案外に綺麗に片付いていた。念のために戸棚をあけてあらためたが、そこにはちっとばかりのがらくたを押し込んであるばかりでなく、これぞというほどの物も見あたらなかった。更に台所へ降りて来て、揚げ板などを払ってあらためたが、ここにも変ったことは無かった。
「次右衛門は、死にぎわに何か云ったそうだね」
「はい」と、喜兵衛は答えた。「それが微かな声でよく聴き取れなかったのですが……。なんでも『大……年……年造』と云ったように聞こえましたが……」
「そうすると大工の年造だね」と、善八は云った。
「ですが、その年造という人は、コロリで死んだそうですから……」
「おめえは二、三日前の晩に見たと云うじゃあねえか」と、善八は又云った。
「それは人違いかも知れませんので、どうもはっきりした事は申し上げられません」
 これで先ずひと通りの調べを終って、半七と善八はここを出た。
「大工の年造という奴は生きているんでしょうか」と、善八はあるきながら訊いた。
「コロリで死んで、焼き場へ運んで、骨揚げをして来た奴が、生きていると云うのも不思議だが、関口屋の長屋へも年造の幽霊が出たと云うから、どうかして生きているのかも知れねえ」と、半七は云った。「次右衛門が死にぎわに、年造と云った以上、どうも年造が殺したとしか思われねえ。そこで『大』と云ったのは大工の『大』か、煙草屋の大吉の『大』か、それを考えなけりゃあならねえ。おそらく大吉だろうな」
「そうでしょうか」
「なにしろ此の一件には大吉が係り合っているに相違ねえ。おれにはもう大抵見当がついた。早く大吉を挙げてしまえ。人間はずうずうしくっても、男娼《かげま》あがりのひょろひょろした野郎だ。おめえ一人でたくさんだろう。いや、待て。下手に逃がして何処かの寺へでも逃げ込まれると面倒だ。おれも一緒に行こう」
 二人は連れ立って小石川の水道町へゆくと、関口屋の長屋に大吉のすがたは見えなかった。隣りの甚蔵の女房の話によると、大吉は年造の幽霊を怖がっている処へ、又もや家主の関口屋にコロリ患者が二人もつづいて出来たので、いよいよ顫え上がってしまい、とてもこんな処にはいられないと云って、五、六日前から殆ど我が家へは寄りつかない。昼間《ひるま》一、二度帰って来たことがあるが、夜は毎晩どこをか泊まりあるいているとの事であった。半七は肚《はら》のなかで笑いながら聴いていた。
「そこで、年造の幽霊はまだ出るかえ」
「あたしは一度見たきりですが……」と、女房は声をひそめて云った。「その後にも出ると云う人もあり、出ないと云う人もあり、どっちが本当だか知りませんが、笊屋のおかみさんもあんな事になって、なんだか気味が悪くって堪まらないので、あたし達は日が暮れると滅多《めった》に表へ出ないようにしています」
「年造の寺はどこだね」
「改代町《かいだいまち》の万養寺です」
「年造の菩提所かえ」
「いいえ。年さんのお寺は無いとかいうことで、大さんが自分の知っているお寺へ納めて貰ったのです」
「いや、ありがとう。わたし達が訊きに来たことは、誰にも内証にして置いてくんねえ」
 表へ出てみると、関口屋は女房の初七日《しょなのか》も過ぎたのであるが、コロリ患者を続いて出したので、近所へ遠慮の意味もあるのか、大戸を半分おろして商売を休んでいるらしかった。半七は気の毒に思った。
 改代町は牛込であるが、ここから遠くない。二人は江戸川の石切橋
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