た。理窟のようでもあり、不理窟のようでもあり、仲裁人らもその処置に困って、結局三百両というところまで交渉を進めたが、次右衛門は断じて譲らなかった。
 仲裁者もあぐねて手をひこうとする時、次右衛門は白髪《しらが》まじりの鬢《びん》の毛をふるわせて云った。
「次兵衛は現在の兄を追い出して、家督を乗っ取った奴だ。その上に、兄の娘を十五の春から十九の秋まで無給金同様に追い使って、挙げ句の果てに殺してしまって、老後の兄を路頭に迷わせる。おれももう堪忍袋の緒が切れた。おととしは女房に死なれ、ことしは娘に死なれ、自分ひとり生き残ったところでなんの楽しみもねえ。命はいつでも投げ出す覚悟だ」
 次兵衛を殺して自分も死ぬといったような、一種の威嚇《おどかし》である。よもやとは思うものの、仲裁人らもなんだか薄気味悪くなって、そのままに手を引くことも出来なくなった。こうして、同じ押し問答を幾日も送るうちに、九月も十日を過ぎて、ここに又一つの騒ぎがおこった。関口屋の裏長屋に住む笊屋六兵衛の女房が頓死したのである。
 まだ宵のことで、亭主の六兵衛は不在であった。女房が突然にきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と悲鳴をあげたので、隣りの甚蔵夫婦が駈けつけると、かれは台所に倒れていた。早速に医者を呼んで来たが、これも病症がよく判らない。やはり蝮にでも咬まれたのであろうと云うのである。笊屋の女房は手当ての効《かい》もなくて、明くる朝死んでしまった。それに就いて又いろいろの噂が立った。
「関口屋の蛇が長屋へ這い込んだのだ」
「いや、年さんの幽霊が出たのだ」
 蛇と幽霊とに執念ぶかく悩まされている人々のあいだに、第二のコロリ騒ぎが又おこった。
 この頃はだんだんに涼風《すずかぜ》が立って、コロリの噂も少しく下火になったという時、関口屋の小僧の石松がコロリに罹《かか》って、二日目に死んだ。それが伝染したと見えて、半病人の女房お琴もつづいて同じ病いに取り憑かれて、これもひと晩のうちに死んだ。関口屋はまったくの暗黒《くらやみ》である。近所の人たちの心も暗黒になった。
 病気が病気であるから、関口屋でも女房の葬式《とむらい》を質素に行なった。その葬式が済んだ後に、次兵衛は思い切ったように云い出した。
「こうなっては、娘もやがて死ぬかも知れない。わたしもどうなるか判らない。関口屋の潰れる時節が来たのでしょう。兄の望み通りに、五百両でも千両でも出してやります」
 さりとて千両は法外であると云うので、仲裁人らは再び交渉をすすめて、六百両までに相場をせり上げると、次右衛門もここらが見切り時と思ったらしく、渋々ながら承諾した。しかも大金であるから迂濶に渡すことは出来ない。後日《ごにち》のために、次右衛門から今後異論がないという一札《いっさつ》を入れさせて、町役人も立ち会いの上で引き渡しを済ませた。
 これらの事件の蔭には、善八の眼が絶えず光っていた。半七も一々その報告を聞いていた。さしあたりは何処へむかって手を着けることも出来なかったが、事件の筋道はだんだんに明るくなって来るように思われた。

  五

 九月二十日の夜なかに、下谷坂本の煙草屋次右衛門は何者にか殺された。その怪しい物音を聞きつけて、近所の者共が駈け付けた頃には、相手はもう姿を隠していた。次右衛門は刃物で喉《のど》と胸を刺されていたが、微かな息の下で云った。
「大……年……年造……」
 まだ何か云いたそうであったが、それぎりで息は絶えた。勿論、早速に訴え出て検視を受けたが、下手人は遺恨か喧嘩か物奪《ものと》りか、すぐには判らなかった。善八がそれを聞き込んだのは明くる日の朝で、半七を案内して下谷へ乗り込んだのは四ツ(午前十時)頃であった。二人は自身番へ寄って、ひと通りの報告を聞いて、更に家主の案内で次右衛門の煙草屋へ踏み込んだ。二間|間口《まぐち》の小さい店で、奥は六畳と二畳のふた間、二階は四畳半のひと間である。
 女房には死なれ、娘は奉公に出ているので、次右衛門は当時ひとり者である。その裏に下駄の歯入れが住んでいて、その婆さんのお酉《とり》というのが朝晩の手伝いに来ていたと、家主は説明した。
「じゃあ、そのお酉というのを、ともかくも呼んで貰いましょう」
 呼ばれて、半七の前に出て来たのは、五十四五の正直そうな老婆であった。それと一緒に隣りの荒物屋の亭主も呼ばれた。亭主は喜兵衛といって、ゆうべ一番さきに駈け付けた男である。お酉と喜兵衛の申し立てによると、次右衛門は道楽者の揚がりだけに、近所の人達にも愛想がよく、これまで別に悪い噂もなかった。場所も悪し、店も小さいので、碌々の商売もないのに、毎日かなりの酒を飲むので、暮らし向きは楽でなかったらしい。それでも娘に婿を取れば、自分は左団扇《ひだりうちわ》で暮らせるなどと大きなことを云
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