。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」
 そら来たと、わたしは思わず居住《いずま》いを直すと、老人はにやにやと笑い出した。
「うっかりと口をすべらせた以上、どうであなたの地獄耳が聞き逃す筈はありません。話しますよ。まあ、ゆっくりとお聴きください」
 有名の和蘭《おらんだ》医師高野長英が姓名を変じて青山百人|町《まち》(現今の南町六丁目)にひそみ、捕吏《とりかた》にかこまれて自殺したのは、嘉永三年十月の晦日《みそか》である。その翌年の四月、この「半七捕物帳」で云えば、かの『大森の鶏』の一件から三月の後、青山百人町を中心として、さらに新しい事件が出来《しゅったい》した。
 江戸の地図を見れば判るが、青山には久保|町《ちょう》という町があった。明治以後は青山北町四丁目に編入されてしまったが、江戸時代には緑町、山尻町などに接続して、武家屋敷のあいだに町屋《まちや》の一郭をなしていたのである。久保町には高徳寺という浄土宗の寺があって、そこには芝居や講談でおなじみの河内山《こうちやま》宗春《そうしゅん》の墓がある。その高徳寺にならんで熊野|権現《ごんげん》の社《やしろ》があるので、それに通ずる横町を俗に御熊野横町と呼んでいた。
 御熊野横町の名は昔から呼び習わしていたのであるが、近年は更に羅生門横町という綽《あだ》名が出来た。よし原に羅生門河岸《らしょうもんがし》の名はあるが、青山にも羅生門が出来たのである。その由来を説明すると長くなるが、要するに嘉永二年と三年との二年間に、毎年一度ずつここに刃傷沙汰《にんじょうざた》があって、二度ながら其の被害者は片腕を斬り落とされたのである。江戸時代でも腕を斬り落とされるのは珍らしい。それが不思議にも二年つづいたので、渡辺綱が鬼の腕を斬ったのから思い寄せて、誰が云い出したとも無しに羅生門横町の名が生まれたのである。
 この久保町、緑町、百人町のあたりへ、去年の夏の末頃から彼《か》の唐人飴を売る男が来た。ここらには珍らしいので相当の商売になっているらしかったが、これを誰が云い出したか知らず、あの飴屋は唯の飴屋でなく、実は公儀の隠密であるという噂が立った。そのうちに高野長英の捕物一件が出来《しゅったい》して、長英は短刀を以って捕手《とりて》の一人を刺し殺し、更に一人に傷を負わせ、自分も咽喉《のど》を突いて自殺するという大活劇を演じたので、近所の者は胆《きも》を冷やした。そうして、かの唐人飴は公儀の隠密か、町方《まちかた》の手先が変装して、長英の探索に立ち廻っていたに相違ないということになった。
 ところが、その唐人飴は長英一件の後も相変らず商売に廻って来た。飴売りは年ごろ二十二三の、色の小白い、人柄の悪くない男で、誰に対しても愛嬌を振り撒いているので、内心はなんだか薄気味悪いと思いながらも、特に彼を忌《い》み嫌う者もなかった。彼も平気で長英の噂などをしていた。そのうちに、その年の冬から翌年の春にかけて、ここらで盗難がしばしば続いた。
「あの唐人飴は泥坊かも知れない」
 人の噂は不思議なもので、最初は捕吏かと疑われていた彼が、今度は反対に盗賊かと疑われるようになった。昼間は飴を売りあるいて家々の様子をうかがい、夜は盗賊に変じて仕事をするのであろうという。実際そんなことが無いとも云えないので、その噂を信ずる者も相当にあったが、さりとて確かな証拠も無いのでどうすることも出来なかった。
「あの飴屋が来ても買うのじゃあないよ」
 土地の人たちは子供らを戒めて、飴を買わせないようにした。商売がなければ、自然に来なくなるであろうと思ったのである。こうして土地の人たちから遠ざけられているにも拘らず、彼はやはり商売に廻って来た。子供が買っても買わなくても、かれは鉦《かね》をたたいて、おかしな唄を歌って、唐人のカンカン踊りを見せていた。この頃は碌々に商売もないのに、根《こん》よく廻って来るのは怪しいと、人々はいよいよ白い眼を以って彼を見るようになったが、彼は一向に平気であるらしかった。或る人がその名を訊《き》いたらば、虎吉と答えた。家は四谷の法善寺門前であると云った。
 四月十一日の朝である。久保町の豆腐屋定助が商売柄だけに早起きをして、豆腐の碓《うす》を挽《ひ》いていると、まだ薄暗い店先から一人の女が転げるように駈け込んで来た。
「ちょいと、大変……。あたし、本当にびっくりしてしまった」
 女は、この町内の実相寺門前に住む常磐津の師匠文字吉で、なんの願《がん》があるか知らないが、早朝に熊野さまへ参詣に出てゆくと、御熊野横町、即ち彼《か》の羅生門横町で人間の片腕を見付けたと云うのである。
「あの羅生門横町で……。又、人間の腕が……」
 定助も顔の色を変えた。しかも彼は自分ひとりで見届けに行くのを恐れて、文
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