女同士で、贔屓にしてくれる所へ顔出しをするのを、師匠がやかましく云う筈はありません」
「まったくだ。そんな野暮を云っちゃあ、役者稼業は出来ねえ」
それから糸を引いて、今度は文字吉の噂に移ったが、亭主は彼女を悪く云わなかった。やはり庄太の報告通り、酒屋の旦那に遠慮して男の弟子は取らない。弟子は近所の娘たちか、遠方から通って来る女たちである。旦那から月々の手当てを貰う上に、いい弟子が相当にあるので、師匠はなかなか内福であるらしいと云った。
「遠くからどんな弟子が来るのだね」と、半七は訊いた。
「遠方から来るのですから、若い人はありません、大抵は二十代か三十代の年増《としま》です。日本橋や神田の下町《したまち》からも来ますし、四谷牛込の山の手辺からも来るそうです。まあ、囲い者のような女か、後家さんらしい人たちですね」
この上に深い詮議をするのもよくないと思って、半七は勘定を払って蕎麦屋を出た。文字吉という師匠はそれほど上手でもないと云うのに、なぜ遠方から年増の女弟子がわざわざ通って来るのか、それには何かの仔細がありそうに思われた。半七はそれを考えながら、熊野権現の社のあたりをひと廻りして、実相寺門前の文字吉の家をたずねると、五十六七の雇い婆らしい女が出て来て、三角な眼をひからせながら無愛想に答えた。
「お師匠《ししょ》さんは風邪を引いて寝ていますよ。お前さんはどなたで……」
「お弟子入りの子供をたのまれて、赤坂の方から参りましたが……」と、半七はおだやかに云った。
「そうですか」と、彼女は相手の顔をながめながら又答えた。「それにしてもお師匠さんはゆうべから寝ていますからね、又出直して来てください」
「世間の噂じゃあ、お師匠さんはきのうの朝、熊野さまの近所で、往来に落ちている片腕を見付けたそうで……。それから熱でも出たのですかえ」
「そんなことは知りませんよ」
彼女の眼はいよいよ光った。ここで自分の正体をあらわすのも面白くないので、半七はいい加減に挨拶して早々にここを出た。出て見ると、いつの間に来たか知らず、塩煎餅屋の前に子供をあつめて、唐人飴の男が往来でカンカンノウを踊っていた。彼は型のごとく唐人笠をかぶって、怪しげな更紗《さらさ》の唐人服を着て、飴の箱を地面におろして、両手をあげて踊っていたが、色の小白い、眼つきのやさしい、いかにも憎気《にくげ》のない男であった。半七はしばらく立ちどまって眺めていた。
子供たちは笑って踊りを見ているばかりで、一人も飴を買う者はなかった。親たちから飴を買う銭《ぜに》を与えられない為であろう。それでも飴売りはちっとも忌《いや》な顔をしないで、何か子供たちに冗談などを云っていた。
なにぶんにも天気はいい。日はまだ高い。その真っ昼間の往来で、いつまでも飴売りのあとを付け廻しているわけにも行かないので、半七はその人相を篤《とく》と見定めただけで、ひと先ずそこを立ち去るのほかは無かった。行きかけて見ると、文字吉の家の雇い婆は裏口から表へ出て、半七の挙動をそっと窺っているらしかった。
この婆も唯者でないと、半七は肚《はら》の中で睨んだ。さてそれからどうしようかと考えながら、ともかくも久保町の通りを行き過ぎると、荒物屋の前に道具をおろして手桶の箍《たが》をかけ換えている職人の姿が眼についた。それは往来を流してあるく桶屋である。もしやと思って覗いてみると、職人は下っ引の源次であるので、半七は行き過ぎながら合図の咳払いをすると、源次は仕事の手をやすめて顔をあげた。二人は眼を見合わせたまま無言で別れた。
源次が来ている以上、庄太も来ているかも知れないと、半七は気をつけて見まわしたが、其処らにそれらしい人影も見えなかった。大通りへ出ると、百人町の武家屋敷は青葉の下に沈んで、初夏の昼は眠ったように静かである。渋谷から青山の空へかけて時鳥《ほととぎす》が啼いて通った。
半七は時々うしろを見かえりながら善光寺門前へさしかかると、源次は怱々《そうそう》に仕事を片付けたと見えて、やがて後《あと》から追って来た。半七は彼を頤《あご》で招いて、善光寺の仁王門をくぐろうとしたが、また俄かに立ちどまった。青山善光寺の仁王尊は昔から有名で、その前には大きい草鞋や下駄がたくさんに供えてある。奉納の大きい石の香炉もある。その香炉に線香をそなえて、一心に拝んでいる若い男の姿に、半七は眼をつけた。
彼はまだ十八九の色白の男で、髪の結い方といい、それが役者であることは一見して知られた。彼はしゃがんで俯向いて拝んでいた。その格好が彼《か》の和藤内の虎狩に働いていた虎によく似ているのを、半七は見逃がさなかった。あたかもそこへ十三四の小娘が二人連れで通りかかった。
「あら、あすこに照之助が拝んでいてよ」
娘たちは若い役者を幾たびか見返り
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