半七捕物帳
新カチカチ山
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新《しん》カチカチ山《やま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅井|因幡守《いなばのかみ》

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(例)見物がわっ[#「わっ」に傍点]と唸りました。
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     一

 明治二十六年の十一月なかばの宵である。わたしは例によって半七老人を訪問すると、老人はきのう歌舞伎座を見物したと云った。
「木挽町《こびきちょう》はなかなか景気がようござんしたよ。御承知でしょうが、中幕は光秀の馬盥《ばだらい》から愛宕《あたご》までで、団十郎の光秀はいつもの渋いところを抜きにして大芝居でした。愛宕の幕切れに三宝を踏み砕いて、網襦袢の肌脱ぎになって、刀をかついで大見得を切った時には、小屋いっぱいの見物がわっ[#「わっ」に傍点]と唸りました。取り分けてわたくしなぞは昔者《むかしもの》ですから、ああいう芝居を見せられると、総身《そうみ》がぞくぞくして来て、思わず成田屋ァと呶鳴りましたよ。あはははは」
「まったく評判がいいようですね」
「あれで評判が悪くちゃあ仕方がありません。今度の光秀だけは是非一度見て置くことですよ」
 老人の芝居好きは今始まったことではない。わたしのような若い者がこの老人に嫌われないのも、こいつは芝居好きで少しは話せるというのが一つの原因になっているらしい。したがって老人と向かい合った場合、芝居話のお相手をするのは覚悟の上であるから、わたしも一緒になって頻りに歌舞伎座の噂をしていると、老人は又こんなことを云い出した。
「今度の木挽町には訥升《とつしょう》が出ますよ。助高屋高助のせがれで以前は源平と云っていましたが、大阪から帰って来て、光秀の妹と矢口渡《やぐちのわたし》のお舟を勤めています。三、四年見ないうちに、すっかり大人びて、矢口のお舟なぞはなかなかよくしていました。いや、矢口と云えば、あの神霊矢口渡という芝居にあるようなことは勿論嘘でしょうが、矢口渡の船頭が足利方にたのまれて、渡し舟の底をくり抜いて、新田《にった》義興《よしおき》の主従を川へ沈めたというのは本当なんでしょうね」
「そりゃあ本当でしょう。太平記にも出ていますから……」
「子供の話にある、カチカチ山の狸の土舟《つちぶね》というわけですね。その矢口渡に似たような事件があるんですが……。恐らく太平記か芝居から思い付いたんじゃないでしょうか」
「矢口渡に似たような事件……。それにはあなたもお係り合いになったんですか」
「かかり合いましたよ」
 こうなると、芝居の方は二の次になって、わたしは袂に忍ばせている手帳をさぐり出すことになった。狡《ずる》いと云えば狡いが、なんでも斯ういう機会を狙って、老人のむかし話を手繰《たぐ》り出さなければならないのである。それは相手の方でも万々察しているらしい。
「はは、いつもの閻魔帳が出ましたね。これだからあなたの前じゃあうっかり[#「うっかり」に傍点]した話は出来ない」
 老人は笑いながら話し始めた。
「文久元年一月末のことと御承知下さい。ほんとうを云うと、この年は二月二十八日に文久と改元のお触れが出たのですから、一月はまだ万延二年のわけですが……。その頃、京橋の築地、かの本願寺のそばに浅井|因幡守《いなばのかみ》という旗本屋敷がありました。三千石の寄合《よりあい》で、まず歴々の身分です。深川の砂村に抱え屋敷、即ち下《しも》屋敷がありまして、主人をはじめ家族の者が折りおりに遊びに行くことになっていました。そこで一月の末、なんでも二十六七日頃だと覚えています。この年は正月早々からとかくに雨の多い春でしたが、二十二三日からからり[#「からり」に傍点]と晴れて、暖い梅見日和がつづいたので、浅井の屋敷では主人の因幡守が妾のお早と娘のお春を連れて、砂村の下屋敷へ梅見に出かけることになりました。因幡守は四十一歳、お早は二十四歳、お春は十五……ちょっとお断わり申して置きますが、このお春というお嬢さまはお早の妾腹ではなく、お蘭という奥さまの子で、奥さまはそれほどの容貌《きりょう》よしでもなかったが、その腹に生まれたお春は京人形のように可愛らしい、おとなしやかなお嬢さまであったそうです。
 そこで主人側は因幡守、お早、お春の三人、それにお付きの女中が三人、供の侍が三人、中間が四人でしたが、船が狭いので侍や中間は陸《おか》を廻り、主人側三人と女中三人は船で行きました。船宿《ふなやど》は築地南小田原|町《ちょう》の三河屋で、屋根船の船頭は千太という者でした。無事に砂村へ行き着いて、一日を梅見に暮らして、ゆう七ツ(午後四時)頃に下屋敷を出て、もとの船に乗って帰る途中、ここに一場の椿事|出来《しゅったい》に及びました」
「矢口渡ですか」
「そうです、そうです。矢口渡か、カチカチ山です」と、老人はうなずいた。「わたくしは現場に居合わせたわけでもありませんから、見て来たようなお話は出来ませんが、帰る時も前と同様に、供の男たちは徒歩《かち》で陸を帰り、主人側三人と女中三人は船で帰ることになって、船頭の千太が船を漕いで、小名木《おなぎ》川をのぼって行きました。御承知の通り、深川は川の多いところですが、この時は小名木川の川筋から高橋、万年橋を越えて、大川筋へ出ました。ここは新大橋と永代橋のあいだで、大川の末は海につづいている。その川中まで漕ぎ出した頃に、どうしたものか、屋根船の底から水が沁み込んで来ました。女中たちが見つけて騒ぎ出す、主人もおどろく、船頭も驚いてあらためると、船底の穴から水が湧き込んで来るんです。慌てて有り合わせた物を栓にさしたが、どうも巧く行かない。ふだんならば此の辺に何かの船が通る筈ですが、あいにく夕方でほかの船も見えない。そのうちに水はだんだんに増して来て、大きくもない屋根船は沈みかかる。船頭は大きい声で助け船を呼ぶ。女中たちも必死になって呼び立てる。それを聞きつけて、佐賀|町《ちょう》の河岸《かし》から米屋の船が二艘ばかり救いに出て来ましたが、もう間に合わない。あれあれと云ううちに、船はとうとう沈んでしまいました」
 文久元年といえば、今から三十余年の昔話であるが、その惨事を聞かされて、わたしは思わず顔をしかめた。
「誰も助からなかったんですか」
「船頭は泳ぎを知っているから、いざというときに川へ飛び込んで助かりましたが、因幡守という人は水心《みずごころ》がなかったと見えて沈みました。ほかは女ばかりですから、妾のお早、娘のお春を始めとして、三人の女中もみんな流されてしまいました。さあ大騒ぎになって、すぐに築地の屋敷へ知らせてやる。屋敷からも大勢が駈けつけて、幾艘の船を出して死骸の引き揚げにかかりましたが、もう日が暮れて、水の上が暗いので、捜索もなかなか思うように行かない。それでも因幡守とお早と女中二人、あわせて四人の死骸を探り当てましたが、娘のお春と女中のお信《のぶ》、この二人のゆくえは知れませんでした。
 浅井の屋敷ではもちろん相当の金を使ったのでしょう。関係者一同に固く口止めをして、その船に乗っていたのは妾と娘と女中ばかりで、主人の因幡守は駕籠で帰った為に無事であったと云い触らしました。それから四、五日後に因幡守は急病頓死の届けを出して、当年十七歳の嫡子小太郎がとどこおりなく家督を相続しました。こういうことは、屋敷の方で何かのぼろを出さない限り、上《かみ》では知らぬ振りをしているのが其の当時の習いでしたから、すべてが無事に済みました。しかし済まないのは、その船の詮議です。たとい主人の因幡守が乗っていないとしても、三千石の旗本の娘と妾と三人の女中を沈めた一件ですから、災難だとばかりは云っていられません。どうして船底から水が漏ったのか、一応の詮議をしなければならないのですが、船頭の千太は後難を恐れたとみえて、船宿の三河屋へ一旦帰りながら、その晩のうちに何処へか姿を隠してしまいました。
 こういう場合に逃げ隠れをすると、かえって本人の不為《ふため》になるばかりか、主人の三河屋にも迷惑をかける事になる。千太が姿を晦《くら》ました為に、三河屋はいろいろの吟味をうけて、大迷惑をしました。考えようによっては、主人が知恵をつけて千太を逃がしたようにも疑われますから、猶更むずかしい事になりました。というのが、だんだん調べてみると、この一件が唯の災難でなく、そこには何か入り組んだ秘密があるらしく思われたからです。
 たくさんの旗本屋敷のうちには随分いろいろのごたごたがあります。しかし身分が身分ですから、まあ大抵のことは大目《おおめ》に見ているんですが、今度の一件は三千石の大家《たいけ》の当主が死んでいるんですから、上《かみ》でも捨て置かれません。家督相続の問題はひとまず無事に聞き届けて置いて、それから内密に事件の真相を探索することになりました。まかり間違えば、三千石の浅井の家は家督相続が取り消されて、さらに取り潰しにならないとも限らないのですから、その時代としては容易ならない事件とも云えるのです。
 そのお荷物をわたくしが背負わされました。役目だから仕方が無いようなものの、町方《まちかた》と違って屋敷方の詮議は面倒で困ります、町屋《まちや》ならば遠慮なしに踏み込んで詮議も出来ますが、武家屋敷の門内へは迂濶《うかつ》にひと足も踏み込むことは出来ません。殊にわれわれのような商売の者は、剣もほろろ[#「ほろろ」に傍点]に追い払われるに決まっていますから、いわゆる盲の垣のぞきで、外から覗くだけで内輪の様子はちっとも判りません。これには全く閉口です」
「今でも華族の家庭の事なぞは調べにくいのですから、昔は猶更そうでしたろうね」
「見す見す武家の屋敷内に大きい賭場が開けているのを知っていても、町方の者が踏み込むことの出来ない時代ですから、大きい旗本屋敷に関係の事件なぞは、自由に手も足も出ません。それでも何とかしなけりゃあならないから、出来るだけは働きましたよ。まあ、お聴き下さい」

     二

 文久元年二月なかばの曇った朝である。浅井一家の人々がこの世の名残《なごり》に眺めた砂村の下屋敷の梅も、きのうきょうは大かた散り尽くしたであろう、春の彼岸を眼のまえに控えて、なま暖い風が吹き出した。
 八丁堀同心、拝郷弥兵衛の屋敷の小座敷で、主人の拝郷と半七とが額《ひたい》をあつめるように摺り寄ってささやいていた。
「いいか、牛込水道|町《ちょう》の堀田庄五郎、二千三百石、これは浅井因幡守の叔父だ。それから京橋南飯田|町《まち》の須藤民之助、八百石、これは因幡の弟で、須藤の屋敷へ養子に貰われて行ったのだ。ほかに親類縁者も相当にあるが、堀田と須藤、この二軒が近しい親類になっているので、それから町方へ内密の探索を頼んで来ている。深川浄心寺脇の菅野大八郎、二千八百石、これは因幡の奥方お蘭の里方《さとかた》で、ここからも内密に頼んで来ている。殊に菅野の申し込みは手きびしい。万一それがために浅井の屋敷に瑕《きず》が付いても構わない。是非ともその実証を突き留めて、いよいよ不慮の災難と決まればよし、もし又なにかの機関《からくり》でもあったようならば、係り合いの者一同を容赦なく召捕ってくれと云うのだ。まかり間違えば浅井の屋敷は潰れる。それを承知でどしどしやってくれと云うのだから大変だ。どうもいい加減に打っちゃっては置かれねえ事になった。半七、しっかりやってくれ」
「まったく打っちゃっては置かれません」と、半七も云った。「武家屋敷の奥のことは判りませんが、この一件以来、浅井の奥さまは半気違いのようになっているそうです」
「無理もねえ。妾はともあれ、亭主と娘を一度になくしてしまったのだから、大抵の女はぼっ[#「ぼっ」に傍点]とする筈だ」と、拝郷も同情するように云った。「里方の菅野からは用人を使によこしたのだが、その用人の話によると、浅井の奥方のお蘭というのは今年三十七で、小太郎とお春のおふくろだ。亭主の因幡は若い時
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