ですね」と、幸次郎は少しく声を低めた。「だれが細工をしたのか知らねえが、恐らく主人を殺すつもりはなかった……。主人はいつもの通りに陸を帰ると思っていたところが、どうしてか船で帰ることになったので、云わば飛ばっちりの災難を受けたような形かと思われますね。女中三人は勿論そば杖でしょうから、そうなると妾のお早か、お嬢さまのお春か、その一人が目指されることになります。年の行かねえお嬢さまが殺されそうにも思われねえから、目指す相手はまあお早でしょうね」
「そうすると、細工人は奥さまか」と、半七は半信半疑の眉をよせた。
「まあ、そんなことらしいようですね。お早というのも評判の悪くない女ですが、なんと云っても本妻と妾、そこには人の知らない角《つの》突き合いもあろうと云うものです。奥さまが半気違いのようになって自分の屋敷に瑕が付いても構わないから、本当のことを調べあげてくれなぞと云うのも、自分のうしろ暗いのを隠そうとする為かも知れませんからね」
「心にもない亭主殺し……。それはまあそれとして、娘殺しはどうする。いくら妾が憎いと云っても、我が生みの娘まで道連れにさせることはあるめえ。なんとかして妾ひとりを殺す法もあろうじゃあねえか」
「いや、そこには又相当の理窟があります。お嬢さまのお春というのはお人形のように可愛らしい娘で、気立ても大変おとなしいのですが、どういうわけか子供のときから妾のお早によく狎《なつ》いて、お早も我が子のように可愛がっていたと云うことです。ねえ、親分。これはわっしの推量だが、奥さまの眼から見たら、お早は自分に子供が無いので、お春を手なずけて我が子のようにして、奥さまに張り合おうという料簡だろうと思われるじゃあありませんか。そうなると、我が子でもお春は可愛くない。いっそお早と一緒に沈めてしまえと、むごい料簡にならないとも限りますまい」
「いろいろ理窟をつけて考えたな」と、半七はほほえんだ。「それもまんざら無理じゃあねえ。女は案外におそろしい料簡を起こすものだ。そこで先ず奥さまの細工とすると、奥さまが直々《じきじき》に船頭に頼みゃあしめえ。誰か橋渡しをする奴がある筈だが……」
「それは女中のお信でしょう」
「むむ、船宿の姪か。そうするとお信は生きているな」
「船宿にいて、小田原町の河岸に育った女ですから、ちっとは水ごころがあるのでしょう。陸へ這いあがって、どっかに隠れているのだろうと思います」
「そんなことが無いとも云えねえ」
大阪屋花鳥の二代目かと、半七は口のうちでつぶやいた。しかも花鳥の一件とは違って、これはなかなか面倒の仕事である。たとい万事が幸次郎の鑑定通りとしても、それは当て推量に過ぎないのであるから、動かぬ証拠を押さえなければならない。
「こうなると、どうしてもお信と千太のゆくえを探し出さなけりゃあならねえ。おめえ一人じゃあ手が廻るめえから、亀か庄太に手伝って貰え。おれは妾の宿《やど》へ行ってみようと思うが、お早はどこの生まれだ」
「浅井の屋敷へ出入りの植木屋の娘だとかいうことですが、宿はどこだか知りません。なに、そりゃあすぐに判りますから、あしたにでも調べて来ます」
幸次郎は請け合って帰った。雨はひと晩降りつづけて、明くる朝はうららかに晴れた。
「こりゃあ拾い物だ」と、半七は窓から表の往来をながめた。気の早い彼岸《ひがん》桜はもう咲き出しそうな日和《ひより》である。御用でなくても、こういう朝には何処へか出て見たいように思われたが、お早の宿が判らないので無闇に踏み出すことも出来ない。半七は落ち着かない心持で半日を無駄に暮らして、幸次郎の報告を待ちわびていると、午頃になって彼は駈けつけた。
「どうも遅くなって済みません。近所の屋敷の奴を二、三人たずねたのですが、あいにくどいつも留守で手間取りました。だが、すっかり判りました。浅井の妾の親許は小梅の植木屋の長五郎、家《うち》は業平《なりひら》橋の少し先だそうです」
「よし、判った。それじゃあ俺はすぐに小梅へ行って来る。ゆうべも云う通り、おめえは誰かの加勢を頼んで、お信と千太のゆくえを探してくれ。ひょっとすると、築地の三河屋へ忍んで来ねえとも限らねえから、あすこへも眼を放すな」
云い聞かせて、半七は早々に家を出た。吾妻橋を渡って中の郷へさしかかると、その当時のここらは田舎である。町屋《まちや》というのは名ばかりで百姓家が多い。時にしもた[#「しもた」に傍点]家があるかと思えば、それは「梅暦」の丹次郎の佗び住居のような家ばかりである。ふだんから往来の少ない土地であるから、雨あがりのぬかるみは深い。半七も覚悟して日和下駄を穿《は》いて来たが、その下駄も泥に埋められて自由に歩かれないくらいである。
それをどうにか通り越して、南蔵院という寺の前から、森川|伊豆守《いずのかみ》の屋敷の辻番所を横に見て、業平橋を渡ってゆくと、そこらは一面の田畑で、そのあいだに百姓家と植木屋がある。長五郎の家をたずねるとすぐに知れた。
大きい旗本屋敷に出入り場もあり、娘を浅井の屋敷に勤めさせて相当の手当てを貰っている為であろう、長五郎の家はここらでも目立つほど大きい構えで、広い植木溜めにはたくさんの樹木が青々とおい茂っていた。門口《かどぐち》には目じるしのような柳の大木が栽《う》えてあって、まばらな四目垣《よつめがき》の外には小さい溝川《どぶがわ》が流れていた。その土橋を渡って内へはいると、鶏がのどかそうに時を作っているばかりで、家内はしんかんと鎮まっていた。
不幸後まだ間もないのであるから、それも無理はないと思いながら、半七は入口らしい方を探してゆくと、南向きの縁さきへ出た。ここにも見上げるような椿の大木が、紅いつぼみをおびただしく孕《はら》ませていた。
「御免なさい」
二、三度呼ばせて、奥からようよう出て来たのは、四十五六の女房であった。これがお早の母であろうと想像しながら、半七は丁寧に会釈《えしゃく》した。
「実はわたくしは築地の浅井さまへ多年お出入りを致して居ります建具屋でございますが……。このたびは何とも申し上げようもない次第で……。早速お悔《くや》みに出る筈でございましたが、かぜを引いて小半月も寝込んでしまいまして、ついつい延引いたしました」
用意して来た線香の箱に香奠《こうでん》の紙包みを添えて出すと、女房は嬉しそうに、気の毒そうに受け取って、これも丁寧に礼を述べた。いかに多年の出入りでも、特別の関係がない限りは、妾の親許まで悔みに来る者はない。正直らしい女房は、建具屋と名乗って来た男の厚意をよろこんで、早速に内へ招じ入れた。半七は奥へ通って仏壇に焼香して、ふたたび元の縁さきへ戻って来ると、女房は茶や煙草盆の用意をしていた。彼女は果たしてお早の母のお富であった。
「悪いときには悪いもので、親類うちに又不幸がありまして、親父はゆうべから戻りません」
遠方を来たのであるから、まあゆっくり休んで行けと、お富は云った。どう見ても、悪意の無さそうな女である。引き留められたのを幸いに、半七は坐り込んで煙草を吸いはじめると、浅草寺《せんそうじ》の八ツ(午後二時)の鐘がきこえた。
四
半七とお富と、初対面の二人のあいだに変った話題はない。殊に今の場合であるから、話は当然かの一件をくり返すことになって、娘をうしなった母の眼からは、また今さらに新らしい涙が湧いた。お富の話によると、亭主の長五郎も正直な職人|気質《かたぎ》の人物であるらしく、娘は多年御恩を受けた殿さまのお供をしたのであるから、死んでも悔むことは無いと云っている。又、それに就いて、お屋敷の御迷惑になるような事は決して口外してはならないと、女房らをも堅く戒めているとのことであった。
「親方の御料簡はよく判っています」と、半七も同情するように云った。「しかし世間の口はうるさいもので、今度の一件に就いてもいろいろの噂を立てる者がありますよ」
「どんなことを云って居ります」と、お富は眼をふきながら訊《き》いた。
「実は……。お前さん達の前じゃあ云いにくい事ですが……」と、半七は渋りながら答えた。「誰かが船底へ細工をして……」
「やっぱりそんなことを云って居りますか」
「お部屋さまを沈めようとした……」
云いかけて相手の顔色を窺うと、お富は黙って考えていた。
「そんなことを云っちゃあなんですが……。どこのお屋敷でも、奥さまとお部屋さまとは折り合いのよくないもので……」
「あれ、お前さん。飛んでもない」と、お富はたしなめるように云った。「それじゃあ奥さまが何か細工をして、内の娘を沈めたとでも云うのですかえ。そりゃあ違います、大違いです。お屋敷の奥さまに限って決して決して、そんな事をなさるような方《かた》じゃありません。奥さまはまことに結構なお方で、それはわたしが請け合います。一体お前さんはそんなことを誰に聞いたのです」
激しい権幕で詰問されて、半七も少しく返事に困った。
「いや、奥さまに限ったわけじゃあありませんが、お屋敷には大勢《おおぜい》の男もいる、女もいる。その大勢のうちには自然こちらの娘さんと仲の悪い者も無いとは云えません。何かのことで娘さんを恨んでいる者も無いとは限りませんから……」
「そりゃあ恨まれているかも知れませんが……」
何か思いあたることでもあるらしい口ぶりに、半七は透かさず訊き返した。
「世の中には外道《げどう》の逆《さか》恨みと云って、自分の悪いのを棚にあげて、人を恨む者もありますからね。何かそんな心あたりでもありますかえ」
お富はまた黙ってしまった。この夫婦は自分でも云う通り、屋敷の迷惑になることは決して口外しまいと決めているらしい。その堅い口を明かせるには、自分も頭巾《ずきん》をぬいで正体を現わすのほかはないと半七は思った。
そこで、彼は自分の身もとを明かした。しかもこれは町方から進んで詮議するのではない。奥さまや親類の諸屋敷から頼まれたのであることを詳しく説明して聞かせると、お富の態度も少し変って来た。
「そういうわけだから、なんでも正直に云ってくれねえじゃあ困る」と、半七は諭《さと》すように云った。「おめえは奥さまは結構な方だと云うが、今のところ、その奥さまが一番疑われているのだ。奥さまの為を思うならば、知っているだけの事をみんな云うがいいじゃあねえか。おれも男だ。屋敷の迷惑になるような事は決して他言しねえから、おれだけに云うと思って話してくれ」
「でも、確かな証拠もないことは……」と、お富はまだ躊躇しているらしかった。
「いや、おめえの云ったことをすぐに証拠にするわけじゃあねえ。ただ心得のために聞いて置くだけのことだ。おめえの娘は此の頃ここへ訪ねて来たかえ」
「去年の暮れにまいりました」
「ひとりで来たのか」
「お信という女中を連れて来ました」
「お信はどんな女だ」
「容貌《きりょう》の悪くない、なかなかしっかり者のようです」
それは船頭の金八の話と符合していたが、お富がお信という女に好意を持っていないらしいのは、その口ぶりで察せられた。
「自分の供に連れて来るようじゃあ、おめえの娘の気に入りなんだね」
「別に気に入りというわけでもございません。お屋敷内では話すことの出来ない内証話があるので、きょうの供に連れて来たのだと申しまして、奥で暫く差し向かいで話して居りました」
「どんな話をしていたか判らなかったかね」
「わたくし共はあちらへ遠慮して居りましたので、二人とも小さな声でひそひそと話し合って居りましたので、どんな話をしていたのか一向に判りませんでした」
「帰る時はどんな様子だった」
「二人とも顔色がよくないようで……。取り分けてお信は真蒼《まっさお》な顔をして居りました」
「娘はそれっきり来ねえのだね」
「春になっては一度も参りません。去年の暮れに顔を見せましたのが一生の別れでございます」と、お富はまた泣き出した。
お早とお信が、ここでどんな密談を遂げたのか。この二人はそもそも敵か味方か。帰るときに二人の顔色が悪かったのはどういうわけか。それは容易に解
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング