が、半七を見て慌てて会釈《えしゃく》した。
「やあ、親分。いらっしゃい」
それは船頭の金八であった。
「おい、金八」と、半七は笑いながら云った。「今度は飛んだ時化《しけ》を食ったな」
「まったく飛んだ時化を食いました。あの日はわっしの出番でしたが、千太がおれに代らせてくれと云って、自分が出て行くと、あの始末。お蔭でわっしは災難を逃がれましたが、千太を身代りにしたようで何だか気が済みませんよ」
「それじゃあ、おめえの出番を千太が買って出たのか。そうして千太のゆくえは知れねえのか」
「あいつは泳ぎますから、無事に揚がって来て、一旦は家《うち》に帰ったのですが、あとが面倒だと思ったのでしょう、いつの間にか姿をかくしてしまったので、親方も困っていますよ」
「千太の家《うち》はどこだ」
「深川の大島|町《ちょう》、石置場の近所ですが、おやじが去年死んだので、世帯《しょたい》を畳んでしまいました」
「浅井の屋敷で死んだ者は、殿さまと……」
「いいえ、殿さまは……」
「まあ隠すな。おれはみんな知っている。お妾とお嬢さまと女中三人、そのなかでお嬢さまと女中ひとりが揚がらねえのだね」
「そうです。お嬢さまとお信という女中が見付かりません。もうあげ汐《しお》という時刻だのに、やっぱり沖の方へ持って行かれたと見えます。そのお信というのは家《うち》の親方の姪ですから、家でも気をつけて探しているのですが……」
「じゃあ、お信という女中はここの家の姪か」と、半七はすこし考えさせられた。
金八の話によると、お信は親方の妹の娘で、早く両親に死に別れて、七つの年からここの家に引き取られていたが、浅井の屋敷は永年の旦那筋である関係から、行儀見習いのために其の屋敷へ奉公に上げることになった。それはお信が十五の春で、あしかけ七年を無事に勤めて、彼女も今年は二十一になる。去年あたりから暇を取らせようという話もあったが、お信はもう少し長年《ちょうねん》したいと云い張って、今年まで奉公をつづけているうちに、こんな事件が出来《しゅったい》したのである。こうと知ったら、無理にも暇を取らせるのであったと、親方夫婦は悔んでいる。きょうまでゆくえの知れない以上はもう死んだものに決まっているのだが、それでも死骸を見ない以上はまだなんだか未練があるので、おかみさんは今日も浅草の観音さまへ御神籤《おみくじ》を取りに行った。親方はかぜを引いたと云って奥に寝ているとのことであった。
「お信というのはどんな女だ、容貌《きりょう》はいいのか。馬鹿か、怜悧《りこう》か」と、半七は訊《き》いた。
「容貌は悪い方じゃありません。十人並よりちっといい方でしょうね。人間もなかなかしっかりしているようです」と、金八は答えた。「ここの家にゃあ子供がないので、お信さんに婿でも取らせるつもりらしかったのですが、こうなっちゃあ仕様がありません。親方もおかみさんもがっかり[#「がっかり」に傍点]していますよ」
「そりゃあ気の毒だな。そこで、お信はなぜ暇を取るのを忌《いや》だと云うのだ」
「よくは知りませんが、屋敷の奥さまが大そう眼をかけて下さるそうで、あんないいお屋敷は無いと始終云っていましたから、そんなことで暇を取る気になれなかったのでしょう。まったくあの屋敷の方々《かたがた》はみんないい人で、若殿さまは優しいかたですし、お嬢さまもおとなしいかたですからね」
「そんなにいい人揃いか」
「みんないい人ですよ。それに若殿さまはここらでも評判の綺麗なかたで、去年元服をなさいましたが、前髪の時分にゃあ忠臣蔵の力弥《りきや》か二十四孝の勝頼《かつより》を見るようで、ここから船にお乗りなさる時は、往来の女が立ちどまって眺めているくらいでした」
「そういう若殿さまがいるので、お信も暇が取れなかったのだろう」と、半七は笑った。「そこで、金八、きょうは御用で来たのだ。一件の船というのを見せてくれ」
「船はそこに繋いであります」
金八は先に立って河岸に出ると、かの屋根船も杭《くい》につながれていた。折りからの引き汐で、海に近いここらの川水は低く、岸のあたりは乾いていた。小さい桟橋を降りて、二人は船のそばに立った。
「おれは素人《しろうと》でわからねえが、どうして水が漏ったのだろう。やっぱり底が傷《いた》んでいたのかな」と、半七は云った。
「さあ」と、金八は首をかしげた。「船が古くなって、底が傷んだのだろうというのですがね。成程、古くはなっているが、水が漏るほどの事はありませんよ。親方はうっかり[#「うっかり」に傍点]した事をしゃべるなと云うので、わっしは黙っていますがね。どうもこりゃあ誰かが仕事をしたのだろうと思うのですが……」
「どんな仕事をしたのだ」
「誰かが抉《えぐ》ったのですよ。醤油樽の呑口のようにはなっていねえが、船底
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