と友達のところを転げ歩いていたんですが、どこでも係り合いを恐れて長くは泊めてくれない。そのうちに親方の清吉がわたくしの手に挙げられたという噂を聞いて、もう逃げ負《おお》せられないと覚悟したのでしょう。自分で尋常に名乗って出ましたが、吟味中に牢死しました」
「お信は清吉の女房の里に隠れていたんですか」
「お信は岸へ泳ぎ着いて、濡れた着物の始末をして、自分だけ助かったつもりにして屋敷へ帰る筈だったんですが……。それが俄かに気が変ったのは、船がいよいよ沈むという時に、お妾のお早がただ一言《ひとこと》『信』と云って、怖い眼をして睨んだそうです。さては覚られたかと思うと、お信は急におそろしくなって、夢中で岸までは泳ぎ着きながらも、もう再び屋敷へ戻る気になれなくなったということです。暫く何処にか隠れていて、暗くなるのを待って下谷の稲荷町、すなわち清吉の女房の里へ尋ねて行って、そこに五、六日隠まって貰って、それから又こっそりと築地の三河屋へ戻って来て、その二階に忍んでいたんです。わたくしが最初に三河屋へ出張って、船頭の金八を詮議していた時、お信は二階に隠れていたわけです、が、その儘うっかり帰って来たのはわたくしの油断でした。
 そこで、お信がどうして浅井の若殿さまを誘い出したのか、それは清吉も知らない。若殿さまは唯だしぬけに尋ねて来たのだと云っていましたが、何かの手だてを用いて呼び出したに相違ないと思われます。若殿さまは三河屋の二階に泊まって、その夜のうちにお信と一緒にぬけ出して、例の屋根船のなかで心中したんですが、清吉はそれをちっとも知らなかったと云う。これも甚だ怪しいと思われます。第一、若殿さまを自分の家に泊めるという法はない。その屋敷はすぐ近所にあるんですから、夜が更《ふ》けても送り帰すのが当然であるのに、平気で自分の二階に泊まらせて、こんな事を仕出来《しでか》したのは、重々申し訳のない次第です。浅井の屋敷では二日前に家出したと云い、清吉はその晩に来たと云い、その申し口が符合しないんですが、或いは二日前から三河屋に忍ばせて置いたのかも知れません。
 それらのことを考えると、お信はしょせん自分の望みは叶わないと覚悟して、叔父の清吉と相談の上で、若殿さまを冥途《めいど》の道連れにしたらしい。清吉も姪が可愛さに、若殿さまを二階に忍ばせて、十分に名残《なごり》を惜しませた上で、二人
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