ね。かたきの片割れだから、お嬢さまも一緒に沈めてしまう……」
「殿さまを殺す気はなかったが、あいにく其の日に限って、殿さまも船で帰ったので、云わば傍杖《そばづえ》の災難に出逢ったのですよ。運の悪いときは仕方のないものです」
「お信は大阪屋花鳥の二代目ですね」
「そうです。子供のときから築地の河岸《かし》に育ったので、相当に水心《みずごころ》があったと見えます。こんにちでは海水浴が流行《はや》って、綺麗な女がみんなぼちゃぼちゃ[#「ぼちゃぼちゃ」に傍点]やりますが、江戸時代には漁師の娘ならば知らず、普通の女で泳ぎの出来るのは少なかったのです。花鳥もお信も泳ぎを知らなかったら、悪いことを思い付かなかったかも知れません」
「そこで千太という船頭はどうしました」
「それには又お話があります」と、老人は説明した。「千太は親方の指図だから忌《いや》とは云われません。もちろん相当の金轡《かねぐつわ》を喰《は》まされたんでしょう。ともかくもこの役目を引き受けて、浅井の人たちを砂村の下屋敷へ送り付けて、その帰りを待っているあいだに船底をくり抜いて置いたんです。いざというときに自分は泳いで逃げ、一旦は三河屋へ帰ったんですが、いろいろの詮議を受けると面倒だというので、親方の指図で姿を隠してしまったんです」
「そうして、どこに隠れていたんです」
「友達の寅吉の家へ逃げ込んで、戸棚のなかに隠れていたそうです。寅吉も悪い奴で、万事を承知で千太をかくまい、千太の使だと云って時々に三河屋へ無心に出かけていたんですが、この寅吉を斬った者がよく判りません。寅吉の出入りを尾《つ》けていた幸次郎の話によると、寅吉が山本町の橋の袂へ来かかった時に覆面の侍が足早に追って来て、一刀に斬り倒したのだそうで、恐らく菅野の屋敷の者だろうと云うんです。菅野は前にも申した通り、浅井の奥さまの里方で深川の浄心寺わきに屋敷を持っている。そこへ今度の一件を種にして、寅吉は何か強請《ゆすり》がましい事でも云いに行ったらしい。屋敷の方でも面倒だと思って、一旦は幾らか握らせて帰して、あとから尾《つ》けて行ってばっさり[#「ばっさり」に傍点]……。わたくしは門前払いを喰っただけでしたが、寅吉は命を取られてしまいました。なにしろ寅吉が殺《や》られてしまったので、千太はどうすることも出来ない。よんどころなく其処を逃げ出して、それからそれへ
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