もあったのかえ」
「それはよく知りませんが、近所の伊之さんと……」
「伊之さん……。伊之助というのか」
「そうです。建具屋の息子で……。その伊之さんと可怪《おか》しいような噂もありましたが、伊之さんは相変らず自分の家《うち》で仕事をしていますから、一緒に逃げたわけでも無いでしょう」
「お糸の宿はどこだ」
「知りません」
 まったく知らないのか、知っていても云わないのか、女中はその以上のことを口外しないので、半七も先ずそれだけで詮議を打ち切った。しかもここへ来て判ったことは、若狭屋のお糸は坂井屋のお糸の間違いである。小伊勢の巳之助は建具屋の伊之助の間違いで、伊之さんを巳之さんと聞き違えたのである。勿論、両方ともにそそっかしいには相違ないが、薄暗いところで見違えたのが始まりで、両方の名が同じであるために、いよいよ念入りの間違いを生じたらしい。女の顔がのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]に見えたなどは、巳之助の錯覚であろう。
 京の商人《あきんど》が睨みの松で天狗にあったというのは、黒船のマドロスを見たに相違ない。口から火を噴いていたというのも、恐らく巻煙草のけむりであろう。それを思うと
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