に過ぎなかった。女に化け、天狗に化け、この上は何に化けるであろうと、気の弱い者をいよいよおびえさせた。
 鈴ヶ森の狐の噂はそれからそれへと伝えられて、江戸市中にも広まった。五月のなかばに、半七が八丁堀同心|熊谷八十八《くまがいやそはち》の屋敷へ顔を出すと、熊谷は笑いながら云った。
「おい、半七、聞いたか。鈴ヶ森に狐が出るとよ」
「そんな噂です」
「一度行って化かされて来ねえか。品川の白い狐に化かされたと云うなら、話は判っているが、鈴ヶ森の狐はちっと判らねえな」
「あの辺には畑もあり、森や岡もたくさんありますから、狐や狸が棲んでいるに不思議はありませんが、そんな悪さをするということは今まで聞かないようです」と、半七は首をかしげた。「ともかくも化かされに行ってみますか」
「いずれ郡代《ぐんだい》の方からなんとか云って来るだろうから、今のうちに手廻しをして置く方がいいな。噂を聞くと、狐はいろいろの物に化けるらしい。今に忠信《ただのぶ》や葛《くず》の葉《は》にも化けるだろう。どうも人騒がせでいけねえ。それも辺鄙《へんぴ》な田舎なら、狐が化けようが狸が腹鼓《はらつづみ》を打とうがいっさいお構いな
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