と判った。
「では、やっぱり狐か」
これで鈴ヶ森の怪談がまた一つ殖えたのであった。
二
巳之助の一件から十日ほどの後である。京の織物|商人《あきんど》の逢坂屋伝兵衛が手代と下男の三人づれで、鈴ヶ森を通りかかった。本来ならば川崎あたりで泊まって、あしたの朝のうちに江戸入りというのであるが、江戸を前に見て宿を取るには及ぶまい。急いで行けば四ツ(午後十時)過ぎには江戸へはいられると、一行三人は夜道をいとわずに進んで来た。彼らは例の狐の噂などを知らないのと、男三人という強味があるのとで、平気でこの縄手へさしかかると、今夜は陰って暗い宵で、波の音が常よりも物凄くきこえた。
伝兵衛は四十一歳で、これまで二度も京と江戸とのあいだを往復しているので、道中の勝手を知っていた。鈴ヶ森がさびしい所であることも承知していた。ここらに仕置場があるなどと話しながら歩いて来ると、暗いなかに一本の大きい松が見えた。それが彼《か》の睨みの松であることは伝兵衛もさすがに知らなかったが、そこに大きい松があるのを見て、何ごころなく提灯をさし付けた途端に、三人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そこに奇怪な物のすがたを発見したのである。
「わあ、天狗……」
それでも三人はあとへ引っ返さずに前にむかって逃げた。彼らは顔の赤い、鼻の高い大天狗を見たのである。天狗は往来を睨みながら、口には火焔を吐いていた。彼らは京に育って、子供のときから鞍馬や愛宕《あたご》の天狗の話を聞かされているので、それに対する恐怖はまた一層であった。気も魂も身に添わずというのは全くこの事で、三人は文字通りに転《こ》けつ転《まろ》びつ、息のつづく限り駈け通すうちに、伝兵衛は石につまずいて倒れて、脾腹《ひばら》を強く打って気絶した。手代と下男はいよいよ驚いて、正体のない主人を肩にかけて、どうにかこうにか鮫洲の町まで逃げ延びた。
こうなっては江戸入りどころで無い。そこの旅籠屋《はたごや》へ主人をかつぎ込んで介抱すると、伝兵衛は幸いに蘇生した。その話を聞いて、宿の者どもは云った。
「あの辺に天狗などの出る筈がない。例の狐が天狗に化けて、おまえさん達を嚇かしたのだ」
こちらは大の男三人であるから、狐と知ったら叩きのめして、その正体をあらわしてやったものをと、今さら力《りき》んでも後《あと》の祭りで、又もや怪談の種を殖やすに過ぎなかった。女に化け、天狗に化け、この上は何に化けるであろうと、気の弱い者をいよいよおびえさせた。
鈴ヶ森の狐の噂はそれからそれへと伝えられて、江戸市中にも広まった。五月のなかばに、半七が八丁堀同心|熊谷八十八《くまがいやそはち》の屋敷へ顔を出すと、熊谷は笑いながら云った。
「おい、半七、聞いたか。鈴ヶ森に狐が出るとよ」
「そんな噂です」
「一度行って化かされて来ねえか。品川の白い狐に化かされたと云うなら、話は判っているが、鈴ヶ森の狐はちっと判らねえな」
「あの辺には畑もあり、森や岡もたくさんありますから、狐や狸が棲んでいるに不思議はありませんが、そんな悪さをするということは今まで聞かないようです」と、半七は首をかしげた。「ともかくも化かされに行ってみますか」
「いずれ郡代《ぐんだい》の方からなんとか云って来るだろうから、今のうちに手廻しをして置く方がいいな。噂を聞くと、狐はいろいろの物に化けるらしい。今に忠信《ただのぶ》や葛《くず》の葉《は》にも化けるだろう。どうも人騒がせでいけねえ。それも辺鄙《へんぴ》な田舎なら、狐が化けようが狸が腹鼓《はらつづみ》を打とうがいっさいお構いなしだが、東海道の入口でそんな噂が立つのはおだやかでねえ。早く狐狩りをしてしまった方がよかろう」
「かしこまりました」
熊谷は勿論この怪談を信じないで、何者かのいたずらと認めているらしかった。半七の見込みもほぼ同様であったが、普通のいたずらにしては少しく念入りのようにも思われた。
三河町の家へ帰って、半七は直ぐ子分の松吉を呼んだ。
「おい、松。おめえと庄太に手伝って貰って、大森の鶏や鈴ヶ森の人殺し一件を片付けたのは、もう七、八年前のことだな」
「そうですね。たぶん嘉永の頃でしょう」と、松吉は答えた。
半七は自分の控え帳を繰ってみた。
「成程、おめえは覚えがいい。嘉永四年の春のことだ。その鈴ヶ森で、また少し働いて貰いてえことが出来たのだが……」
「狐じゃあありませんか」と、松吉が笑った。「わっしも何だか変だと思っていたのですがね」
「その狐よ。熊谷の旦那から声がかかった以上は、笑ってもいられねえ。なんとか正体を見届けなけりゃあなるめえが、おめえ達に心あたりはねえか」
「今のところ、心あたりもありませんが、早速やって見ましょう」
松吉は受け合って帰ったが、その翌日の夕がたに顔を出して
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