さまよっているには、何かの仔細がなければならない。巳之助は一緒にあるきながら訊《き》いた。
「駈け落ちかえ。相手は誰だ」
「本当にあたしは馬鹿なのよ。あんな人にだまされて……」と、お糸はくやしそうに云った。「巳之さん、済みません。堪忍してください」
 巳之助とお糸はまんざらの仲でもなかった。その巳之助を出し抜いて、ほかの男と駈け落ちをする。女が何とあやまっても、男の方では腹が立った。
「何もあやまるにゃあ及ばねえ。そんな約束の男があるなら、おれのような者と道連れは迷惑だろう。おめえはここで其の人を待っているがよかろう。おれは先へ行くよ」
 女を振り捨てて、巳之助はすたすたと行きかかると、お糸は追って来て男の袖をとらえた。
「だから、あやまっているじゃあないか。巳之さん、まあ訳を訊いておくれというのに……」
「知らねえ、知らねえ。そんな狐にいつまで化かされているものか」
 自分の口から狐と云い出して、巳之助はふと気がついた。この女はほんとうの狐であるかも知れない。悪い狐がお糸に化けておれをだますのかも知れない。これは油断がならない、と彼は俄かに警戒するようになった。
「ねえ、巳之さん。わたしはどんなにでも謝《あやま》るから、まあひと通りの話を聴いて下さいよ。ねえ、もし、巳之さん……」
 口説きながら摺り寄って来た女の顔、それが気のせいか、眼も鼻も無い真っ白なのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の顔にみえたので、巳之助はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。彼は夢中で提灯を投げ出して、両手で女の咽喉《のど》を絞めようとした。
「おまえさん、何をするの。あれ、人殺し……」
 突き退けようとする女を押さえ付けて、巳之助は力まかせにその咽喉を絞めると、女はそのままぐったりと倒れた。
「こいつ、見そこなやあがって、ざまあ見ろ。憚りながら江戸っ子だ。狐や狸に馬鹿にされるような兄《にい》さんじゃあねえ」
 投げ出すはずみに蝋燭は消えたので、提灯は無事であった。潮あかりに拾いあげたが、再び火をつける術《すべ》もないので、巳之助はそのまま手に持って歩き出そうとする時、彼はどうしたのか忽ちすくんで声をも立てずに倒れてしまった。
 さびしいと云っても東海道であるから、狐のうわさを知らない旅びとは日暮れてここを通る者もあったが、あいにくに今夜は往来が絶えていた。巳之助が正気にかえったのは、それから二刻《ふたとき》ほどの後で、彼は何者にか真向《まっこう》を撃たれて昏倒したのである。ようよう這い起きて、闇のなかを探りまわると、提灯はそこに落ちていた。ふところをあらためると、紙入れも無事であった。
「お糸はどうしたか」
 星あかりと潮あかりで其処らを透かして視ると、女の形はもう残っていないらしかった。自分をなぐった奴が女を運んで行ったのか、それとも消えてなくなったのか、巳之助にもその判断が付かなかった。第一、自分を殴り倒した奴は何者であろう。物取りならば懐中物を奪って立ち去りそうなものであるが、身に着けた物はすべて無事である。お糸はやはり狐の変化《へんげ》で、その同類が自分に復讐を試みたのかと思うと、巳之助は急に怯気《おじけ》が出て、惣身《そうみ》が鳥肌になった。口では強そうなことを云っていても、彼は決して肚《はら》からの勇者でない。こうなると怖い方が先に立って、彼は怱々《そうそう》にそこを逃げ出した。
 鈴ヶ森の縄手を通りぬけて、鮫洲から浜川のあたりまで来ると、巳之助は再び眼が眩《くら》んで歩かれなくなった。そこには丸子という同商売の店があるので、夜ふけの戸を叩いて転げ込んで、その晩は泊めて貰うことにした。ゆうべは余ほど強く撃たれたと見えて、夜が明けても頭が痛んだ。おまけに熱が出て起きられなかった。
 丸子の店でも心配して医者を呼んだ。芝の家へも知らせてやった。巳之助は熱に浮かされて、囈語《うわごと》のように叫んだ。
「狐が来た……。狐が来た」
 事情をよく知らない周囲の人々は薄気味悪くなった。これは夜ふけに鈴ヶ森を通って、このごろ評判の狐に取りつかれたに相違ないと思った。同商売の店に迷惑を掛けてはならないというので、小伊勢の店からは迎えの駕籠をよこして、病人の巳之助を引き取って行ったが、実家へ帰っても彼は「狐」を口走っていた。この場合、まず品川へ行ってお糸という女が無事に勤めているかどうかを確かめるべきであるが、それに就いて巳之助はなんにも云わないので、小伊勢の店の人々もそんなことには気がつかなかった。
 それでも五、六日の後に、巳之助は次第に熱が下がって粥などをすするようになった。彼はここに初めて当夜の事情を打ち明けたので、両親は取りあえず品川の若狭屋に問い合わせると、巳之助が馴染のお糸という女は何事もなく勤めていて、駈け落ちなどは跡方もない事である
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