半七親分だ。すぐ出て来てくれ」
「はい、はい」と、伊之助は鉋屑《かんなくず》をかき分けながら出て来た。彼はきのうも松吉に嚇されているので、きょうはその親分が直々《じきじき》の出張にいよいよおびえているらしかった。
「ここじゃあ話が出来ねえ。ちょいと其処らまで足を運んでくれ」
 松吉と熊蔵を店に待たせて置いて、半七は伊之助ひとりを連れて出た。五、六軒行くと細い横町がある。その横町を右に切れるとすぐに畑地で、路ばたに石の庚申像《こうしんぞう》が立っている。それを掩うような楓《かえで》の大樹が恰好の日かげを作っているので、半七はそこに立ちどまった。
「早速だが、おめえはまったく坂井屋のお糸のゆくえを知らねえのか」
「知りません」と、伊之助はうつむきながら答えた。
「お糸は坂井屋へ遊びに来る異人に馴染でもあった様子か」
「坂井屋へは異人が大勢来ますが、お糸に馴染があるかどうだか、それは存じません」
「おめえは異人に自分の女を取られたのじゃあねえか」
 伊之助は黙っていた。
「おめえは坂井屋へ手伝いに来るお此という女を知っているだろうな」
「知っています」
 伊之助の声が少しふるえているのを、半七は聞き逃がさなかった。
「あの女も異人を知っているのだろうな」
「さあ、それはどうですか」
「お此はお糸と心安くしていたか」
「どうですか」
「お糸はお此が誘い出したのじゃあねえか」
「そんな事はあるまいと思いますが……」
「おい、伊之。顔を見せろ」
「え」
「まあ、明るいところで正面を向いて見せろよ。おれが人相を見てやるから……」
 伊之助はやはりうつむいたままで、すぐには顔をあげなかった。半七はその頤《あご》に手をかけて、無理にあおむかせた。
「これ、隠すな。おめえはお此と訳があるだろう。お此は年上の女で入墨者だ。あんな者に可愛がられていると、碌なことはねえぞ。お糸はお此に誘い出されて、売り飛ばされたか、殺されたか。はっきり云え」
 伊之助は身をすくめたままで、唖《おし》のように黙っていた。
「さあ、云え。正直に云えばお慈悲を願ってやる。お此は贋金づかいで召し捕られて、もう何もかも白状しているのだ。それを知らずに隠し立てをしていると、おめえも飛んだ係り合いになるぞ。贋金づかいの同類と見なされて、この鈴ヶ森で磔刑《はりつけ》になりてえのか。女にばかり義理を立てて、病人の親に泣きを見せるな。この親不孝野郎め」
 伊之助は真っ蒼になって、その眼から白い涙が糸を引いて流れ出した。
「さあ、どうだ」と、半七は畳みかけて云った。「お此の白状ばかりじゃあねえ。四相《しそう》を覚《さと》るこの重忠《しげただ》が貴様の人相を見抜いてしまったのだ。これ、よく聞け。貴様は前から坂井屋のお糸と出来ていた。そこへ横合いからお此という女が出て来て、貴様は又そいつに生け捕られてしまった。お此は年上で、おまけに質《たち》のよくねえ奴だから、邪魔者のお糸を遠ざけようとして悪法をたくらんだ。さあ、それに相違あるめえ」
 腕をつかんで一つ小突かれて、伊之助は危く倒れそうになった。半七は暫く黙ってその顔を睨んでいた。
 この時、横町の入口から一人の女が駈け込んで来た。そのあとから熊蔵と松吉が追って来た。女がお此であることをすぐに察して、半七はその前にひらりと飛んで出ると、前後を挟まれて彼女は帯のあいだから剃刀《かみそり》をとり出して、死に物狂いに振りまわした。しかもそれを叩き落とされて、更に麦畑のなかへ逃げ込もうとする処を、半七は帯をとらえて曳き戻した。熊蔵と松吉が追い付いて取り押さえた。
「ここじゃ仕様がねえ。品川まで連れて行け」と、半七は先に立って歩き出した。
 男と女は子分ふたりに追い立てられて行った。お此の顔には汗が流れていた。伊之助の顔には涙が流れていた。

「芝居ならば、ここでチョンと柝《き》がはいる幕切れです」と、半七老人は云った。「お此という奴はわる強情で、ずいぶん手古摺らせましたが、伊之助が意気地がないので、その方からだんだんに口が明いて、古狐もとうとう尻尾《しっぽ》を出しましたよ」
「古狐……。その狐の騒ぎはみんなお此の仕業《しわざ》なんですか」と、私は訊いた。
「そこが判じ物で……。まずお此という女についてお話をしましょう。こいつの家《うち》は芝の片門前で、若い時から明神の矢場の矢取り女をしたり、旦那取りをしたりしていたんですが、元来が身持ちのよくない奴で、板の間稼ぎやちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]持ちや万引きや、いろいろの悪いことをして、女のくせに入墨者、甲州から相州を股にかけて、流れ渡った揚げ句に、再び江戸へ舞い戻って、前にも申す通り、小間物の荷をさげて歩いたり、近所の茶屋の手伝いをしたりして、まあ無事に暮らしていたんですが、それでおとなしくしてい
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