それから二刻《ふたとき》ほどの後で、彼は何者にか真向《まっこう》を撃たれて昏倒したのである。ようよう這い起きて、闇のなかを探りまわると、提灯はそこに落ちていた。ふところをあらためると、紙入れも無事であった。
「お糸はどうしたか」
 星あかりと潮あかりで其処らを透かして視ると、女の形はもう残っていないらしかった。自分をなぐった奴が女を運んで行ったのか、それとも消えてなくなったのか、巳之助にもその判断が付かなかった。第一、自分を殴り倒した奴は何者であろう。物取りならば懐中物を奪って立ち去りそうなものであるが、身に着けた物はすべて無事である。お糸はやはり狐の変化《へんげ》で、その同類が自分に復讐を試みたのかと思うと、巳之助は急に怯気《おじけ》が出て、惣身《そうみ》が鳥肌になった。口では強そうなことを云っていても、彼は決して肚《はら》からの勇者でない。こうなると怖い方が先に立って、彼は怱々《そうそう》にそこを逃げ出した。
 鈴ヶ森の縄手を通りぬけて、鮫洲から浜川のあたりまで来ると、巳之助は再び眼が眩《くら》んで歩かれなくなった。そこには丸子という同商売の店があるので、夜ふけの戸を叩いて転げ込んで、その晩は泊めて貰うことにした。ゆうべは余ほど強く撃たれたと見えて、夜が明けても頭が痛んだ。おまけに熱が出て起きられなかった。
 丸子の店でも心配して医者を呼んだ。芝の家へも知らせてやった。巳之助は熱に浮かされて、囈語《うわごと》のように叫んだ。
「狐が来た……。狐が来た」
 事情をよく知らない周囲の人々は薄気味悪くなった。これは夜ふけに鈴ヶ森を通って、このごろ評判の狐に取りつかれたに相違ないと思った。同商売の店に迷惑を掛けてはならないというので、小伊勢の店からは迎えの駕籠をよこして、病人の巳之助を引き取って行ったが、実家へ帰っても彼は「狐」を口走っていた。この場合、まず品川へ行ってお糸という女が無事に勤めているかどうかを確かめるべきであるが、それに就いて巳之助はなんにも云わないので、小伊勢の店の人々もそんなことには気がつかなかった。
 それでも五、六日の後に、巳之助は次第に熱が下がって粥などをすするようになった。彼はここに初めて当夜の事情を打ち明けたので、両親は取りあえず品川の若狭屋に問い合わせると、巳之助が馴染のお糸という女は何事もなく勤めていて、駈け落ちなどは跡方もない事である
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