当時のことをよく知りませんが、恐らく脱艦したのだろうと思います。そこで、船が品川を立ち去るまでは隠れていなければいけないというので、お此が手引きをして、ひと先ずジョージを大森在の九兵衛という百姓の家へ忍ばせて置きました。
 さあ、ここまではお話が出来るんですが、それから先は少しお茶番じみていて、いつぞやお話をした『ズウフラ怪談』の型にはいるんです。お此の申し立てによると、三月はじめの晩に、なにかの用があって鈴ヶ森の縄手を通りかかると、漁師らしい若い男の二人連れに摺れ違った。二人は一杯機嫌でお此にからかって、その袂などを引っ張るので、お此はうるさいのと癪に障るのとで、一つ嚇かしてやろうと思って、袂から西洋マッチをとり出して、手早く摺りつけて二、三本飛ばせると、二人は火が飛んで来るのにびっくりして、忽々に逃げ出した。そのマッチは黒船のお客から貰って、お此が袂に入れていたんです。今から考えると、実に子供だましのような話ですが、マッチというものを知らない時代には、火の玉がばらばら飛んで来るのに胆《きも》を潰したわけです」
「成程、ズウフラ怪談ですね」
「探偵話にほんとうの凄い怪談は少ないもので、種を洗えばみんなズウフラ式ですよ」と、老人は笑った。「さてその噂が忽ちぱっと拡がって、鈴ヶ森の縄手に狐が出るという評判になりました。その狐は黒船の異人が放したのだなぞと云う者もある。現にその前年、即ち安政五年の大コロリの時にも、異人が狐を放したのだという噂がありました。そこで、今度の狐も品川の黒船から出て来たというような噂が立つ。それを聞くと、お此はおかしくってたまらない。一体、犯罪者には一種の茶目気分のある奴が多いもので、お此も世間をさわがすのが面白さに、それを手始めにマッチの悪戯をちょいちょいやる。時には靴を磨くブラッシに靴墨を塗って置いて、暗やみで摺れ違いながら人の顔を撫でたりしたそうです。いつの代もそうですが、そんな噂が拡がると、いろいろに尾鰭を添えて云い触らす者が出て来るので、狐の怪談が大問題になってしまったんですが、お此がほんとうに悪戯をしたのは七、八回に過ぎないと自分では云っていました」
 わたしも狐に化かされたような心持で聴いていた。

     六

 それにしても、私にはまだ判らないことがあった。
「小伊勢という料理屋の息子が出逢ったのは、ほんとうのお糸ですか。そ
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