せるな。この親不孝野郎め」
 伊之助は真っ蒼になって、その眼から白い涙が糸を引いて流れ出した。
「さあ、どうだ」と、半七は畳みかけて云った。「お此の白状ばかりじゃあねえ。四相《しそう》を覚《さと》るこの重忠《しげただ》が貴様の人相を見抜いてしまったのだ。これ、よく聞け。貴様は前から坂井屋のお糸と出来ていた。そこへ横合いからお此という女が出て来て、貴様は又そいつに生け捕られてしまった。お此は年上で、おまけに質《たち》のよくねえ奴だから、邪魔者のお糸を遠ざけようとして悪法をたくらんだ。さあ、それに相違あるめえ」
 腕をつかんで一つ小突かれて、伊之助は危く倒れそうになった。半七は暫く黙ってその顔を睨んでいた。
 この時、横町の入口から一人の女が駈け込んで来た。そのあとから熊蔵と松吉が追って来た。女がお此であることをすぐに察して、半七はその前にひらりと飛んで出ると、前後を挟まれて彼女は帯のあいだから剃刀《かみそり》をとり出して、死に物狂いに振りまわした。しかもそれを叩き落とされて、更に麦畑のなかへ逃げ込もうとする処を、半七は帯をとらえて曳き戻した。熊蔵と松吉が追い付いて取り押さえた。
「ここじゃ仕様がねえ。品川まで連れて行け」と、半七は先に立って歩き出した。
 男と女は子分ふたりに追い立てられて行った。お此の顔には汗が流れていた。伊之助の顔には涙が流れていた。

「芝居ならば、ここでチョンと柝《き》がはいる幕切れです」と、半七老人は云った。「お此という奴はわる強情で、ずいぶん手古摺らせましたが、伊之助が意気地がないので、その方からだんだんに口が明いて、古狐もとうとう尻尾《しっぽ》を出しましたよ」
「古狐……。その狐の騒ぎはみんなお此の仕業《しわざ》なんですか」と、私は訊いた。
「そこが判じ物で……。まずお此という女についてお話をしましょう。こいつの家《うち》は芝の片門前で、若い時から明神の矢場の矢取り女をしたり、旦那取りをしたりしていたんですが、元来が身持ちのよくない奴で、板の間稼ぎやちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]持ちや万引きや、いろいろの悪いことをして、女のくせに入墨者、甲州から相州を股にかけて、流れ渡った揚げ句に、再び江戸へ舞い戻って、前にも申す通り、小間物の荷をさげて歩いたり、近所の茶屋の手伝いをしたりして、まあ無事に暮らしていたんですが、それでおとなしくしてい
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