に過ぎなかった。女に化け、天狗に化け、この上は何に化けるであろうと、気の弱い者をいよいよおびえさせた。
 鈴ヶ森の狐の噂はそれからそれへと伝えられて、江戸市中にも広まった。五月のなかばに、半七が八丁堀同心|熊谷八十八《くまがいやそはち》の屋敷へ顔を出すと、熊谷は笑いながら云った。
「おい、半七、聞いたか。鈴ヶ森に狐が出るとよ」
「そんな噂です」
「一度行って化かされて来ねえか。品川の白い狐に化かされたと云うなら、話は判っているが、鈴ヶ森の狐はちっと判らねえな」
「あの辺には畑もあり、森や岡もたくさんありますから、狐や狸が棲んでいるに不思議はありませんが、そんな悪さをするということは今まで聞かないようです」と、半七は首をかしげた。「ともかくも化かされに行ってみますか」
「いずれ郡代《ぐんだい》の方からなんとか云って来るだろうから、今のうちに手廻しをして置く方がいいな。噂を聞くと、狐はいろいろの物に化けるらしい。今に忠信《ただのぶ》や葛《くず》の葉《は》にも化けるだろう。どうも人騒がせでいけねえ。それも辺鄙《へんぴ》な田舎なら、狐が化けようが狸が腹鼓《はらつづみ》を打とうがいっさいお構いなしだが、東海道の入口でそんな噂が立つのはおだやかでねえ。早く狐狩りをしてしまった方がよかろう」
「かしこまりました」
 熊谷は勿論この怪談を信じないで、何者かのいたずらと認めているらしかった。半七の見込みもほぼ同様であったが、普通のいたずらにしては少しく念入りのようにも思われた。
 三河町の家へ帰って、半七は直ぐ子分の松吉を呼んだ。
「おい、松。おめえと庄太に手伝って貰って、大森の鶏や鈴ヶ森の人殺し一件を片付けたのは、もう七、八年前のことだな」
「そうですね。たぶん嘉永の頃でしょう」と、松吉は答えた。
 半七は自分の控え帳を繰ってみた。
「成程、おめえは覚えがいい。嘉永四年の春のことだ。その鈴ヶ森で、また少し働いて貰いてえことが出来たのだが……」
「狐じゃあありませんか」と、松吉が笑った。「わっしも何だか変だと思っていたのですがね」
「その狐よ。熊谷の旦那から声がかかった以上は、笑ってもいられねえ。なんとか正体を見届けなけりゃあなるめえが、おめえ達に心あたりはねえか」
「今のところ、心あたりもありませんが、早速やって見ましょう」
 松吉は受け合って帰ったが、その翌日の夕がたに顔を出して
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