方がねえ。江戸へ帰るまで我慢するのだ」
 ここで草鞋を穿《は》きかえて、六郷の川端まで来かかると、十人ほどが渡しを待っていた。いずれも旅の人か江戸へ帰る人たちで、土地の者は少ない。そのなかで半七の眼についたのは三十二三の中年増《ちゅうどしま》で、藍鼠《あいねずみ》の頭巾《ずきん》に顔をつつんでいるが、浅黒い顔に薄化粧をして、ひと口にいえば婀娜《あだ》っぽい女であった。女は沙原《すなはら》にしゃがんで、細いきせるで煙草を吸っていた。庄太はその傍へ寄って煙草の火を借りた。
「天気はいいが、お寒うござんすね」と、庄太は云った。
「雪のあとのせいか、風がなかなか冷えます」と、女は云った。
 そのうちに船が出たので、人々は思い思いに乗り込んだ。女は船のまん中に乗った。半七と庄太は舳先《へさき》に乗った。やがて向うの堤《どて》に着いて、江戸の方角へむかって歩きながら、半七は小声で云った。
「おい、庄太。あの女はなんだか見たような顔だな」
「わっしもそう思っているのだが、どうも思い出せねえ。堅気《かたぎ》じゃありませんね」
「今はどうだか知れねえが、前から堅気で通して来た女じゃあねえらしい」
「小股の切れ上がった粋な女ですね」
「それだから火を借りに行ったのじゃあねえかえ」と、半七は笑った。
「まあ、まあ、そんなものさ」
 庄太も笑いながら後《あと》を見かえると、女は雪どけ道に悩みながら、おなじく江戸へむかって来るらしかった。町屋から蒲田へさしかかって、梅屋敷の前を通り過ぎたが、あまり風流気のない二人はそのまま素通りにして、大森に行き着くと、名物の麦わら細工を売る店のあいだに、休み茶屋を兼ねた小料理屋を見つけた。
「親分。少し休ませて貰えねえかね。寒くってどうにもこうにも遣り切れねえ」と、庄太は泣くように云った。
「一杯飲みてえのか。まあ、附き合ってやろう」と、半七は先に立って茶屋へはいった。
 奥には庭伝いで行けるような小座敷もあったが、坐り込むと又長くなるというので、二人は店口の床几《しょうぎ》に腰をおろして、有り合いの肴《さかな》で飲みはじめた。半七は多く飲まないが、庄太は元来飲める口であるので、寒さ凌《しの》ぎと称してむやみに飲んだ。
「いいかえ、庄太。あんまり酔っ払うと置き去りにして行くぜ」
「そんな邪慳《じゃけん》なことを云わねえで、まあ、もう少し飲ませておくんなせえ
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