、畑道のあいだを縫って大宮八幡の門前へ辿り着くまでに、二人は途中の百姓家で幾たびか道を訊いた。
「初めて来たせいか、ずいぶん遠いな」と、半七は立ちどまって云った。
「ちっとくたびれましたね。まあ、一服しましょう」
 二人は路ばたの石に腰をかけて、煙草入れを取り出した。空はいよいようららかに晴れて、そこらの麦畑で雲雀《ひばり》の声もきこえた。風の無い日で、煙草のけむりの真っ直ぐにあがるのを眺めながら、半七はしずかに云い出した。
「なあ、亀。おれは途中で考えながら来たのだが、ここの絵馬は無事だろうと思うぜ」
「そうでしょうか」
「おそらく無事だろうと思う。偽物をこしらえて掏り換えたというが、それは丸多の亭主が欺されているので、実は自分が偽物を掴まされているのだろう」
「成程ね」
「そうなりゃあ論はねえ。丸多の亭主は誰にかだまされて、偽物を高く買い込んだというだけのことだ。おれはどうもそうらしく思う。念のためによく調べてみよう」
 二人は松並木のあいだを縫って本社の前に出ると、境内は思ったよりも広かった。東にむかった社殿に幾種の絵馬が懸けつらねてあって、そのうちにかの白鷹の絵馬も見えたので、二人は近寄って暫く無言で見あげていたが、やがて半七は自分の予覚が適中したようにほほえんだ。
「おれは素人《しろうと》で、こんな物の眼利きは出来ねえが、彩色《いろどり》といい、木目《もくめ》といい、どう見ても拵え物じゃあねえらしい。こりゃあ確かに本物だ」
 神仏|混淆《こんこう》の時代であるから、この八幡の別当所は大宮寺という寺であった。半七は別当所へ行って、自分たちの身分を明かして、かの絵馬について聞き合わせると、寺僧らもおどろいて出て来た。彼らは半七の眼の前で、かの絵馬を取りおろして裏表を丁寧にあらためたが、絵馬にはなんの異変もなく、当社伝来の物に相違ないと云った。
「いや、よく判りました。わたしも大方そうだろうと思って居りました」と、半七は云った。「就いてはもう一つ伺いたいことがありますが、近頃ここへ来てこの絵馬の図取りでもしていた者をお見掛けになりませんでしたろうか」
「成程そう云えば、去年の十月か十一月頃のことでした」と、若い僧の一人が答えた。「四十前後の町人風の男が二十三四の女と二人連れで参詣に来て、この絵馬の下に暫く立って眺めていましたが、女は矢立《やたて》と紙を取り出して何か模写しているようでした。その後に又来ましたが、今度は女ひとりで、やはり一心に写しているように見受けました」
 その女の人相や風俗を訊きただして、半七と亀吉は寺僧らに別れた。
「その女というのは絵かきでしょうね」と、亀吉は云った。
「むむ。どうで偽物をこしらえるのだから、絵かきも味方に入れなけりゃあならねえ。男というのは絵馬屋の亭主で、女は出入りの絵かきだろう。これから帰ったら、その女を探ってみろ」
「ようがす。女の絵かきで、年ごろも人相も判っているのだから、すぐに知れましょう。そこで、大津屋はどうします。もう少し打っちゃって置きますか」
「どうで一度は挙げる奴らしいが、まあ、もう少し助けて置け。いよいよおれの鑑定通り、ここの絵馬が無事であるとすれば、大津屋の亭主は丸多をだまして、偽物を押し付けたに相違ねえ。それを知らずに偽物を後生《ごしょう》大事にかかえて、丸多の亭主は何処をうろ付いているのだろう。考えてみると可哀そうでもある。なんとかして早くそのありかを探し出してやりてえものだ」
「帰りに堀ノ内へ廻りますかえ」
「ついでと云っちゃあ済まねえが、ここらまでは滅多《めった》に来られねえ。午飯《ひるめし》を食ってお詣りをして行こう」
 二人は堀ノ内へまわって、遅い午飯を信楽《しがらき》で食って、妙法寺の祖師に参詣した。その帰り路で、半七は又云い出した。
「おれは又、途中で考え付いたが、そのお城坊主の次男……万次郎とかいう奴は、大津屋の亭主とぐる[#「ぐる」に傍点]になっているのじゃあるめえかな。丸多が絵馬で半気違いになっているのに付け込んで、大津屋が先ず偽物でいい加減に儲けた上に、今度は万次郎が入れ代って、謀叛人の絵馬を云いがかりに、丸多を嚇しつけて何千両という大仕事を企《たくら》んだのじゃあねえかと思うが……。もしそうならば、重々|太《ふて》え奴らだ。しかしお城坊主の伜なんぞには随分悪い奴がある。下手《へた》をやると逆捻《さかね》じを喰うから、気をつけて取りかからなけりゃあならねえ」
 元来た道を四谷へ引っ返して、大木戸ぎわの丸多の店へ立ち寄ると、主人多左衛門のゆくえは未だ知れないと番頭らは嘆いていた。
 幸八を表へ呼び出して、半七はきょうの結果をささやいた。
「まあ、そういうわけだから、絵馬の一件は心配するほどの事はありません。だまされた人間もよくねえが、欺した奴はなお悪いという事になる。そこで、お城坊主の伜というのは、その後に尋ねて来ませんかえ」
「おとといの晩、怒って帰ったきりで、きのうも今日も見えません」
「又来て嚇《おど》し文句をならべても、肝腎の絵馬は無事なのだから、別に恐れることはありません。まあいい加減にあしらって置くがようござんすよ」
「ありがとうございます」と、幸八はやや安心したように云った。
 大木戸から更に塩町へ引っ返して、大津屋の店さきへ来かかった頃には、三月末の長い日ももう暮れかかっていた。うす暗い店には商売物の絵馬が大小取りまぜてたくさんに懸けてあって、若い職人ひとりと小僧二人が何かの仕事をしているらしかった。半七はその店へはいって、要《い》りもしない絵馬を一枚買った。
「親方は内かえ」
「きょうは昼間から出ました」と、職人は答えた。
「いつ頃帰るか、判らないかね」
「この頃はちょいちょい出るので、いつ帰るか判りませんが……。なにか御用ですか」
「むむ、奉納の大きい物を頼みてえのだが、親方が留守じゃあ仕方がねえ。また出直して来よう。おかみさんもいねえかね」
「おかみさんは……。四、五年前になくなりました」
「じゃあ、親方は一人かえ。子供は……」
「娘があります」
「娘は幾つだ」
「十八です」
「いい女かえ。おめえは様子がいいから、もう出来ているのじゃあねえか」
「冗談でしょう」と、職人は大きい声で笑い出した。
 半七も笑ってそこを出たが、五、六間ほど行き過ぎて大津屋をみかえった。
「おい、亀。少し忙がしくなって来たが、大津屋の亭主と娘について出来るだけのことを洗ってくれ。万次郎の方は松に云いつけて調べさせろ。丸多の亭主は半気違げえだから、何処にどうしているか、差しあたりは手の着けようがねえ。それから如才《じょさい》もあるめえが、大津屋を調べるついでに、女の絵かきの探索も頼むぜ」と、云いかけて半七は急に又笑い出した。「やあ、いけねえ、いけねえ。おれもよっぽど焼きがまわったな。今あの店で、ここの絵馬をかく人は誰だと訊いてみりゃあ好かったに……。こいつは大しくじりだ」
「なに、そんなことはすぐに判りますよ」
 店屋の灯がちらほら[#「ちらほら」に傍点]紅くなった往来で、親分と子分は別れた。

     四

 あくる日は又陰って、夕方から細かい雨がしとしとと降り出した。どうも続かない天気だと云っていると、その夜の五ツ(午後八時)過ぎに、亀吉と松吉が顔をそろえて来た。
「丁度そこで逢いました」
「そりゃあ都合が好かった。そこで、早速だが、めいめいの受け持ちはどうだった」と、半七は訊《き》いた。
「じゃあ、わっしから口を切りましょう」と、亀吉は云い出した。
「大津屋の亭主は重兵衛といって、ことし四十一になるそうです。五年前に女房に死なれて、お絹という娘と二人っきりですが、どっかに内証の女があると見えて、この頃は家を明けることが度々ある。それから、親分。その娘のお絹というのは、お城坊主の次男とどうも可怪《おか》しいという噂で……。してみると、親分の鑑定通り、万次郎と大津屋とはぐる[#「ぐる」に傍点]だろうと思いますね。それから大津屋へ出入りの女絵かきは、孤芳《こほう》という号を付けている女で、年は二十三四、容貌《きりょう》もまんざらで無く、まだ独身《ひとりみ》で、新宿の閻魔《えんま》さまのそばに世帯《しょたい》を持っているそうです。そこで、まだはっきりとは判りませんが、この女は大津屋の亭主か万次郎か、どっちかの男に係り合いがあると、わっしは睨んでいるのですが……」
「そうかも知れねえ」と、半七はうなずいた。「そこで、松。おめえの調べはどうだ」
「わっしの方はすらすらと判りました」と、松吉は事もなげに答えた。「親分も知っていなさる通り、四谷坂町に住んでいるお城坊主の牧野逸斎、その長男が由太郎、次男が万次郎で……。万次郎はことし二十一ですが、まだ養子さきも見付からねえで、自分の家《うち》の厄介になっている。こいつも絵馬道楽のお仲間で、大津屋へも出這入りをしているうちに、今も亀が云う通り、大津屋の娘と出来合ったらしいという噂です。だが、近所の評判を聞くと、万次郎という奴はもちろん褒められてもいねえが、取り立てて悪くも云われねえ、世間に有りふれた次三男の紋切り型で、道楽肌の若い者というだけの事らしいのです」
「大津屋の重兵衛はどうだ。こいつにも悪い評判はねえか」と、半七は又訊いた。
「そうですね」と、亀吉はすこし考えていた。「これも近所町内の評判は別に悪くもねえようです。万次郎と同じことで、まあ善くも無し、悪くも無しでしょうね。だが、旧《ふる》い店だけに身上《しんしょう》は悪くも無いらしく、淀橋の方に二、三軒の家作も持っているそうです」
「娘はどんな女だ」
「きのう親分がいい女かと云ったら、職人が笑っていたでしょう。まったく笑うはずで、わっしもきょう初めて覗いてみたが、いやもう、ふた目と見られねえ位で、近所のお岩さまの株を取りそうな女ですよ。可哀そうに、よっぽど重い疱瘡《ほうそう》に祟られたらしい。それでもまあ年頃だから、万次郎と出来合った……。と云っても、おそらく万次郎の方じゃあ次男坊の厄介者だから、大津屋の婿にでもはいり込むつもりで、まあ我慢して係り合っているのでしょうよ」
「それで先ずひと通りは判った」と、半七は薄く瞑《と》じていた眼をあいた。「娘と万次郎と出来ていることは父親の重兵衛も知っていて、行く行くは婿にでもするつもりだろう。それはまあどうでも構わねえが、丸多の亭主の絵馬きちがいに付け込んで、偽物の絵馬をこしらえて、孤芳という女に絵をかかせて、その偽物を丸多に押しつけて……。それから入れ代って万次郎が押し掛ける。やっぱり俺の鑑定通りだ……。今の話じゃあ、万次郎という奴はあんまり度胸のある人間でも無さそうだから、おそらく重兵衛の入れ知恵だろう。自分が蔭で糸を引いて、万次郎をうまく操《あやつ》って、大きい仕事をしようとする……。こいつもなかなかの謀叛人だ。由井正雪が褒めているかも知れねえ。だが、こいつらがおとなしく手を引いて、これっきり丸多へ因縁を付けねえということになれば、まあ大目《おおめ》に見て置くほかはあるめえ。何事もこの後の成り行き次第だ」
「まあ、そうですね」と、亀吉も答えた。
「それにしても、丸多の亭主にも困ったものだ。店の者にゃあ気の毒だが、何処をどう探すという的《あて》がねえ」と、半七は溜め息をついていた。
 それから世間話に移って、やがて四ツ(午後十時)に近い頃に、亀吉らは一旦挨拶して表へ出たかと思うと、又あわただしく引っ返して来た。
「親分、飛んだ事になってしまった。丸多が死んだそうですよ」
 つづいて番頭の幸八が駈け込んだ。
「いろいろ御心配をかけましたが、主人の死骸が見付かりました」
「どこで見付かりました」と、半七も忙がわしく訊《き》いた。
「追分《おいわけ》の高札場《こうさつば》のそばの土手下で……」
「それじゃあ近所ですね」
「はい。店から遠くない所でございます」
「どうして死んでいたのです」
「松の木に首をくくって」
「例の絵馬は……」
「死骸のそばには見あたりませんでした。御承知の通り、あすこ
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