奴はなお悪いという事になる。そこで、お城坊主の伜というのは、その後に尋ねて来ませんかえ」
「おとといの晩、怒って帰ったきりで、きのうも今日も見えません」
「又来て嚇《おど》し文句をならべても、肝腎の絵馬は無事なのだから、別に恐れることはありません。まあいい加減にあしらって置くがようござんすよ」
「ありがとうございます」と、幸八はやや安心したように云った。
 大木戸から更に塩町へ引っ返して、大津屋の店さきへ来かかった頃には、三月末の長い日ももう暮れかかっていた。うす暗い店には商売物の絵馬が大小取りまぜてたくさんに懸けてあって、若い職人ひとりと小僧二人が何かの仕事をしているらしかった。半七はその店へはいって、要《い》りもしない絵馬を一枚買った。
「親方は内かえ」
「きょうは昼間から出ました」と、職人は答えた。
「いつ頃帰るか、判らないかね」
「この頃はちょいちょい出るので、いつ帰るか判りませんが……。なにか御用ですか」
「むむ、奉納の大きい物を頼みてえのだが、親方が留守じゃあ仕方がねえ。また出直して来よう。おかみさんもいねえかね」
「おかみさんは……。四、五年前になくなりました」
「じゃあ、親方は一人かえ。子供は……」
「娘があります」
「娘は幾つだ」
「十八です」
「いい女かえ。おめえは様子がいいから、もう出来ているのじゃあねえか」
「冗談でしょう」と、職人は大きい声で笑い出した。
 半七も笑ってそこを出たが、五、六間ほど行き過ぎて大津屋をみかえった。
「おい、亀。少し忙がしくなって来たが、大津屋の亭主と娘について出来るだけのことを洗ってくれ。万次郎の方は松に云いつけて調べさせろ。丸多の亭主は半気違げえだから、何処にどうしているか、差しあたりは手の着けようがねえ。それから如才《じょさい》もあるめえが、大津屋を調べるついでに、女の絵かきの探索も頼むぜ」と、云いかけて半七は急に又笑い出した。「やあ、いけねえ、いけねえ。おれもよっぽど焼きがまわったな。今あの店で、ここの絵馬をかく人は誰だと訊いてみりゃあ好かったに……。こいつは大しくじりだ」
「なに、そんなことはすぐに判りますよ」
 店屋の灯がちらほら[#「ちらほら」に傍点]紅くなった往来で、親分と子分は別れた。

     四

 あくる日は又陰って、夕方から細かい雨がしとしとと降り出した。どうも続かない天気だと云っていると、その夜の五ツ(午後八時)過ぎに、亀吉と松吉が顔をそろえて来た。
「丁度そこで逢いました」
「そりゃあ都合が好かった。そこで、早速だが、めいめいの受け持ちはどうだった」と、半七は訊《き》いた。
「じゃあ、わっしから口を切りましょう」と、亀吉は云い出した。
「大津屋の亭主は重兵衛といって、ことし四十一になるそうです。五年前に女房に死なれて、お絹という娘と二人っきりですが、どっかに内証の女があると見えて、この頃は家を明けることが度々ある。それから、親分。その娘のお絹というのは、お城坊主の次男とどうも可怪《おか》しいという噂で……。してみると、親分の鑑定通り、万次郎と大津屋とはぐる[#「ぐる」に傍点]だろうと思いますね。それから大津屋へ出入りの女絵かきは、孤芳《こほう》という号を付けている女で、年は二十三四、容貌《きりょう》もまんざらで無く、まだ独身《ひとりみ》で、新宿の閻魔《えんま》さまのそばに世帯《しょたい》を持っているそうです。そこで、まだはっきりとは判りませんが、この女は大津屋の亭主か万次郎か、どっちかの男に係り合いがあると、わっしは睨んでいるのですが……」
「そうかも知れねえ」と、半七はうなずいた。「そこで、松。おめえの調べはどうだ」
「わっしの方はすらすらと判りました」と、松吉は事もなげに答えた。「親分も知っていなさる通り、四谷坂町に住んでいるお城坊主の牧野逸斎、その長男が由太郎、次男が万次郎で……。万次郎はことし二十一ですが、まだ養子さきも見付からねえで、自分の家《うち》の厄介になっている。こいつも絵馬道楽のお仲間で、大津屋へも出這入りをしているうちに、今も亀が云う通り、大津屋の娘と出来合ったらしいという噂です。だが、近所の評判を聞くと、万次郎という奴はもちろん褒められてもいねえが、取り立てて悪くも云われねえ、世間に有りふれた次三男の紋切り型で、道楽肌の若い者というだけの事らしいのです」
「大津屋の重兵衛はどうだ。こいつにも悪い評判はねえか」と、半七は又訊いた。
「そうですね」と、亀吉はすこし考えていた。「これも近所町内の評判は別に悪くもねえようです。万次郎と同じことで、まあ善くも無し、悪くも無しでしょうね。だが、旧《ふる》い店だけに身上《しんしょう》は悪くも無いらしく、淀橋の方に二、三軒の家作も持っているそうです」
「娘はどんな女だ」
「きのう親分がいい
前へ 次へ
全14ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング