半七捕物帳
正雪の絵馬
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)修羅場《しゅらば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)塚原|渋柿園《じゅうしえん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うっかり[#「うっかり」に傍点]
−−

     一

 これも明治三十年の秋と記憶している。十月はじめの日曜日の朝、わたしが例によって半七老人を訪問すると、老人は六畳の座敷の縁側に近いところに坐って、東京日日新聞を読んでいた。老人は歴史小説が好きで、先月から連載中の塚原|渋柿園《じゅうしえん》氏作『由井正雪』を愛読しているというのである。半七老人のような人物が歴史小説の愛読者であるというのは、なんだか不似合いのようにも思われるが、その説明はこうであった。
「わたくしは妙な人間で、江戸時代の若いときから寄席の落語や人情話よりも講釈の修羅場《しゅらば》の方がおもしろいという質《たち》で、商売柄にも似合わないとみんなに笑われたもんですよ。それですから、明治の此の頃流行の恋愛小説なんていうものは、何分わたくし共のお歯に合わないので、なるべく歴史小説をさがして読むことにしています。渋柿園先生の書き方はなかなかむずかしいんですが、読みつづけているとどうにか判ります。殊に今度の小説は『由井正雪』で、わたくし共にもお馴染《なじみ》の深いものですから、毎朝の楽しみにして読んでいます」
 それが口切りで、けさは由井正雪のうわさが出た。老人は商売柄だけに、丸橋忠弥の捕物の話などもよく知っていた。それから縁をひいて、老人は更にこんなことを云い出した。
「あの正雪の絵馬はどうなりましたかね」
「正雪の絵馬……。どこにあるんですか」
「堀ノ内のそばです」と、老人は説明した。「堀ノ内のお祖師様から西南に当りますかね。半里《はんみち》あまりも行ったところに和田村、そこに大宮八幡というのがあります。今はどうなっているか知りませんが、総門から中門までのあいだ一丁あまりは大きい松並木が続いていて、すこぶる神《かん》さびたお社《やしろ》でした。社内にも松杉がおい茂っていて、夏なんぞは蝉の声がそうぞうしい位です。場所が少し偏寄《かたよ》っているので、ふだんはあまり参詣もないようですが、九月十九日の大祭のときには近郷近在から参詣人が群集して、なかな
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