わたしも最後まで聴きはずすまいと耳を澄ましていると、老人は床の間の置時計をふと見かえって、女中部屋の老婢《ばあや》を呼んだ。老婢が顔を出すと、老人はなにか眼で知らせた。すぐに呑み込んでゆく老婢のうしろ姿を見送って、これは悪かったと私は俄かに気がついた。老人は午飯《ひるめし》の用意を命じたに相違ない。早朝から長座《ちょうざ》して、午飯まで御馳走になっては相済まないと、わたしは慌てて巻煙草の袋を袂へ押し込んで、帰り支度に取りかかろうとするのを、老人は手をあげて制した。
「まあ、お待ちなさい。お話はもう少しですよ」
 云ううちに、老婢はもう裏口から足ばやに出て行ったらしい。追えども及ばずと観念して、私はずうずうしく坐り直すと、老人は又話しつづけた。
「四月二十一日の宵に、お絹は近所の湯屋へ行く振りをして、塩町の大津屋をぬけ出して、淀橋の孤芳の家へ尋ねて行きました。孤芳が万次郎を引っ張り込んでいるだろうと疑って、その様子を窺いに行ったんです。自分の家作ですから勝手はよく知っているので、裏口から廻って窺うと、案の通り、男と女は縁側に近いところへ出て、早い蚊いぶしを焚きながら、睦まじそうに話している。それを見ると、お絹は嚇《かっ》とのぼせて、悪女が更に鬼女のようになって、そこの台所にあり合わせた出刃庖丁をとって、孤芳を殺そうとして暴れ込んだので、孤芳はおどろいて庭へ飛び降りる。それを追おうとするお絹を万次郎が抱きとめる。お絹は死に物狂いになって暴れ廻る。その刃物をもぎ[#「もぎ」に傍点]取ろうとするうちに、思わずも手がまわって……。と、いうことになっているんですが、これは重兵衛の場合と違ってどうだか判りません。金は貰えず、婿にはなれず、こんな悪女に付きまとわれては遣り切れないと思って、万次郎が思い切ってずぶり[#「ずぶり」に傍点]とやったのかも知れません。いずれにしても、お絹は乳の下を突かれて即死。惚れた男の手にかかって果敢《はか》なくなりました。その死骸は万次郎と孤芳が始末して、縁の下へ埋めているところへ、又そのあとから重兵衛がたずねて来たんです。
 もう隠すことは出来ないので、万次郎も度胸を据えて、正直にその事情を打ち明けた上で、おれを下手人として突き出してくれと云うと、重兵衛も考えたらしいんです。わが子を殺されて驚いたには相違ないが、自分にも絵馬の秘密があるので、それを万
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