にもない人殺しをする事になったんです」
「重兵衛が丸多の主人を殺したんですね」
「多左衛門が家出をしてから三日目、即ち三月二十八日の晩に、重兵衛は淀橋にある自分の家作を見まわりに行って、それから千駄ヶ谷の又助という建具屋へ寄って、雨戸一枚と障子二枚をあつらえて、夜もやがて四ツ(午後十時)という頃に、提灯をぶら下げて、例の高札場に近い土手へさしかかると、大きい松の木の下にぼんやり突っ立っている人影が見える。もしや首でも縊《くく》るのかと、提灯を袖に隠しながら抜き足をして近寄ると、それが丸多の主人であったので、おどろいて声をかけました。
 なにしろ相手の多左衛門が姿を隠してしまっては、万事の掛け合いが巧く行かないと思っている矢さきへ、丁度にここでその姿を見付けたので、重兵衛はこれ幸いと喜んで、いろいろに宥《なだ》めすかして丸多の店へ連れて帰ろうとしたが、多左衛門はどうしても承知しない。家へ帰ると、これを取り返されるから否《いや》だと云って後生《ごしょう》大事に例の絵馬を抱えている始末。まったく、本人は半気違いになっていたらしく、いかに説得しても肯《き》かないので、重兵衛もしまいには焦《じ》れ込んで、腕ずくで引き摺って行こうとする、相手は行くまいとする。そのうちに、多左衛門の気色がだんだんに暴《あら》くなって来て、重兵衛をなぐり付けて立ち去ろうとする。それを又ひき留めて、二人はとうとう組討ちになって……。土手下に転がって争ううちに、そこに細い藁縄が落ちていたので、重兵衛は半分夢中でその縄を拾って、相手の頸にまき付けて……。と、本人はこう白状しているんですが、恐らく嘘じゃあなかろうと思います。多左衛門を殺しては金の蔓が切れてしまう道理ですから、重兵衛も好んで相手を殺すはずはなく、ほんの一時の出来心に相違ありますまい。
 しかし相手を殺した以上、なんとか後始末をしなければなりませんから、重兵衛は死人の帯を解いて松の木にかけて、自分で縊《くび》れたようにこしらえて、早々にそこを立ち去ったんです。偽物の絵馬を残して置いて、なにかの詮議の種になると面倒だと思ったので、風呂敷包みのまま引っ抱えて帰って、叩き毀《こわ》して焼き捨てたそうです。その風呂敷も一緒に焼いてしまえば好かったんですが、そこが人情の吝《けち》なところで、風呂敷まで焼くにも及ぶまいと、そのまま残して置いたのが運の尽き
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