先に立てて、久兵衛はあわてて駈け出した。おきぬも女中のあとからつづいた。
「顔でも斬られたら大変だ」と、おきぬは思った。
二
それからふた月あまりの後である。
日本橋北新堀町の鍋久の店に美しい嫁が来た。嫁の名はお節といい、浅草の山谷《さんや》の露路の奥に十人ばかりの子供をあつめて、細々ながら手習い師匠として世を送っている磯野小左衛門という浪人の娘であった。
こう云えば、詳しい説明を加える必要もあるまい。鍋久の一行が人丸堂のほとりへ駈けつけて、ともかくも娘を近所の茶店へ連れ込んで介抱すると、幸いにさしたることも無くて正気に復《かえ》った。人丸堂の前まで来かかった時に、さっきの男が何処からか現われて、突然に娘の脾腹《ひばら》を突いたのであるという。刃物でなく、拳固で突いただけであるから、いわば当て身を食わされたようなわけで、一旦は気が遠くなったが他《ほか》に別条もなかったのである。刃物で顔でも斬られないのが勿怪《もっけ》の仕合わせであったと人々は喜んだ。こうなると、娘ひとりで帰らせるのは何分にも不安であるので、久兵衛ら四人はその自宅まで送って行くことにした。
娘はしき
前へ
次へ
全57ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング