その奉公中に格別の悪いうわさも無かったらしく、お節はその娘に相違なかった。しかもそれだけの事では、どうにも手の着けようが無かった。
 八月十三日の夕七ツ(午後四時)頃である。半七は砂場の店に腰をかけて煙草を吸っていると、一人の小僧が暖簾《のれん》をくぐってはいってきた。彼は天ぷら蕎麦をあつらえて、同じく腰をかけた。どうも見たような小僧だと、半七は顔をそむけながら、横眼で睨むと、彼は鍋久の店の小僧であった。彼はやがて運んで来た天ぷら蕎麦を食ってしまって、更にあられ蕎麦を註文した。それを又食ってしまうまで半七は気長に待っていると、小僧は銭《ぜに》を払って出た。
 半七もつづいて暖簾《のれん》を出て、うしろから声をかけた。
「おい、小僧さん。鍋久の小僧さん」
 不意に呼ばれて、小僧はびっくりしたように立ちどまると、半七はすぐに其の手を据えた。
「おい、おれの顔を忘れたか。この間おれたちに茶を持って来たのはお前だろう」
 小僧も思い出したように、無言で半七の顔を見あげていた。
「おまえの名はなんというのだ」
「宇吉といいます」
「むむ、宇吉か。お前はなかなか景気がいいな。お店者《たなもの》の小
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