駈け出した。暗い夜で、雨は降りしきっている。その闇のなかをお節は駈けた。店の者共も追った。しかもお節は遠くも行かずに、眼の前の新堀川へ身を跳らせて飛び込んでしまった。
「身投げだ、身投げだ。若いおかみさんが身を投げた」
騒ぎはいよいよ大きくなって、店からは幾張《いくはり》の提灯をとぼして出た。近所の店の者も提灯を振って加勢に出た。大勢の人々が雨夜の河岸《かし》を奔走して、そこか此処かと探し廻ったが、二、三日降りつづいて水嵩の増している川の面《おも》に、お節の姿は浮かびあがらなかった。河岸につないである小舟を出して、無益にそこらを尋ね明かしているうちに、その夜はむなしく更《ふ》けて行った。
「これが昼間ならばなあ」
何分にもこの時代の夜は不便であった。岸の上に、水の上に、無数にひらめく提灯の火も、遂に若い女ひとりの姿を見出し得ずに終った。この川下《かわしも》は永代橋である。死体はそこまで押し流されて、広い海へ送り出されてしまったのかも知れない。人々は唯いたずらに溜息をつくばかりであった。
お節の身投げも意外の椿事に相違なかったが、鍋久の家内には更におそろしい椿事が出来《しゅったい》
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