。おかみさんと新次郎とは何か訳があるのかと訊かれて、宇吉はそれも知らないと答えた。
「きょうも手紙を届けに行ったのか」
「新どんの手紙を持って行ったんです」
「向うから返事をくれたか」
「返事は無いというので、そのまま帰って来ました」
半七は舌打ちした。届けにゆく途中で取り押さえて、その密書を手に入れれば、なにかの秘密をさぐることが出来たのであるが、空手《からて》で帰る途中ではどうにもならない。彼は少しく思案して、自身番の男に云った。
「もし、定番《じょうばん》さん。わたしが引っ返して来るまで、この小僧を奥へほうり込んで置いてください。縛って置くにゃあ及ばねえが、逃がさねえように気をつけて……」
宇吉をそこに預けて、半七は自身番を出た。それから蕎麦屋へ帰ってくると、日の暮れる頃に徳次が顔を見せた。
「どうだ。なんにも当りはねえか」
小僧の一件を聞かされて、徳次はうなずいた。
「そうして、その小僧はどうした」
「番屋へ預けて置きました」と、半七は云った。「日が暮れても小僧が帰らなけりゃあ、新次郎という奴は不安心に思って、ここへ様子を見に来るかも知れません。そこを何とかしようじゃあありませんか」
「そうだ、そうだ。いいところへ気がついた。小僧がいつまでも帰らなけりゃあ、新次郎は心配して出て来るに相違ねえ。だが、相手は店者《たなもの》だから、そう早くは出られめえ。今夜は夜ふかしと覚悟して、今のうちに腹をこしらえて置くのだな」
二人は近所の小料理屋へ行って夕飯を済ませた。半七を蕎麦屋に待たせて置いて、徳次は自身番へ出て行ったが、やがて帰って来て笑いながら云った。
「半七。おめえの調べはまだ足りねえぜ。おれは鍋久の小僧を調べて、こんな事を聞き出した。鍋久の女中のお直という女は、きのう出しぬけに暇を出されたそうだ。もっとも今月は八月で、半季の出代り月じゃああるが、晦日《みそか》にもならねえうちに暇を出されるのはちっと可怪《おか》しい。これにゃあ何か訳がありそうだ。お直の宿は下谷《したや》の稲荷町《いなりちょう》だというから、ともかくも尋ねて行ってみろよ」
「してみると、お直という奴も何か係り合いがありそうですね。今夜すぐに行きましょうか」
「相手は女だ。まあ、あしたでも好かろう」
弁天山の五ツ(午後八時)の鐘を聞いて、二人は再びここを出た。小左衛門の露路の近所を遠巻きにして、そこらをうろ付いている筈であるが、半七は念のために露路の奥へ覗きにゆくと、井戸を前にした小左衛門の家の奥から女の泣き声が洩れてきこえた。
女はお直かお節かと、半七は胸をおどらせながら耳を澄ましていると、低いながらも鋭いような男の声が更にきこえた。
「お前のいうのはみんな云いがかりだ。あまりにばかばかしくって、相手になっていられない。もういい加減にして、帰れ、帰れ」
「いいえ、若いおかみさんは生きているに相違ありません。きっと、どっかに隠れているんです」と、女は泣き声をふるわせて、相手に食ってかかるように叫んだ。
「まだそんなことを……。近所へきこえても迷惑だ。さあ、帰れ。浪人しても、おれは侍だ。不法の云いがかりをすると、容赦しないぞ」
この時、露路の口から忍ぶようにはいって来る足音がきこえたので、半七はあわてて井戸側のかげに身をかくすと、一人の男があたりを見まわしながら、小左衛門の家の格子《こうし》をそっとあけた。そのあとから徳次も抜き足をして追って来た。
「おい。野郎が来たぞ」と、彼は半七を見付けてささやいた。
予定の通りに、新次郎が忍んで来たのである。しかも彼がはいって来てから、三人の話し声が俄かに低くなって、外へはちっとも洩れなくなったので、二人は苛々《いらいら》しながら猶も窺っていると、忽ちに女の悲鳴が起った。
「あれ、人殺し」
もう猶予は出来ないので、二人は格子を蹴開いて跳り込むと、小左衛門は早くも行灯を吹き消した。狭い家内《やうち》の闇試合で、どうにか男ひとりを取り押えたが、ほかはどこにいるのか見当が付かなかった。徳次は大きい声で呼んだ。
「長屋の者は早くあかりを持って来い。御用だぞ」
御用の声を聞いて、長屋の者どもは提灯や蝋燭を照らして来た。ふたたび明るくなった家内には若い女が半死半生で倒れていた。お店者ふうの若いものが徳次に押えられている。あるじの小左衛門のすがたは見えなかった。
「畜生……」
押えている男を半七に渡して、徳次は露路の外へ追って出たが、暫くしてむなしく帰って来た。表は月の明るい夜でありながら、逃げ足の早い小左衛門は、巧みにゆくえを晦ましてしまったというのである。
女は鍋久のお直で、小左衛門のために咽喉《のど》を絞められかかったのであるが、人々に介抱されて息をふき返した。男はかの新次郎であった。彼等ふたりは自身番へ
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