ときから、空模様が少しく覚束《おぼつか》ないように思われたが、あしたは晦日《みそか》で店を出にくいというので、女中と小僧に傘を用意させて、母子は思い切って出て来たのであった。
 来てみると、境内《けいだい》は予想以上の混雑で、雷門をはいるともう身動きもならない程に押し合っていた。こんな陰った日であるから、定めて混雑しないであろうと多寡《たか》をくくっていた鍋久の一行は、今更のように信心者の多いのに驚かされながら、ともかくも仲見世から仁王門をくぐると、ここは又一層の混雑で、鳩が餌《えさ》を拾う余地もなかった。
 それでも、どうにかこうにか本堂へあがって、型《かた》のごとくに参詣をすませたが、ちょうど今が人の出潮《でしお》とみえて、仁王門と二天門の両方から潮《うしお》のように押し込んで来るので、帰り路はいよいよ難儀であった。鍋久の一行はその群衆に押されて揉まれて、往来の石甃《いしだたみ》の上を真っ直ぐに歩いてはいられなくなった。
「まあ、少し休んで行こう」と、母のおきぬは云い出した。彼女は少しく人ごみに酔ったらしいのである。
 混雑のなかを潜《くぐ》って、四人はひとまず淡島《あわしま》の社《やしろ》あたりへ出た。こことても相当に混雑しているが、それでも押し合う程のことは無いので、人々はほっ[#「ほっ」に傍点]とひと息ついて額の汗を拭いている時、突然に女の声がきこえた。
「あ、もし……」
 さわがしい中でも、若い女の声が冴えているので、四人の耳をおどろかした。それが何かの注意をあたえるように思われたので、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついて見返ると、ひとりの男の手が久兵衛のふところから紙入れを引き出そうとしているのであった。こういう場合には珍らしくない巾着切《きんちゃっき》りである。
「ええ、なにをする」
 久兵衛はあわてて其の手を捉えようとすると、男はそれを振り払って、掴んでいる紙入れを地面に叩きつけた。
「畜生、おぼえていろ」
 彼はそれを注意した女の顔を憎さげに睨んで、そのまま群衆のなかへ姿を隠してしまった。睨まれたのは十七八の若い娘で、別に華やかに化粧をしているのでもないが、その容貌《きりょう》の美しいのが四人の眼をひいた。
「どうも有難うございました」と、久兵衛は彼女に礼を云った。
「おかげ様で災難を逃がれました。伜は勿論、わたくし共もみんなうっかりして居りまし
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