いただけで、そんな大火を起したのじゃあありません。梅津|長門《ながと》という浪人者を逃がすために、自分の部屋へ火を付けたとかいう噂もありますが、それはまあ一種の小説でしょう。花鳥はどうも手癖が悪くって、客の枕探しをする。その上に我儘者で、抱え主と折り合いがよくない。容貌《きりょう》も好し、見かけは立派な女なんですが、枕さがしの噂などがある為に、だんだんに客は落ちる、借金は殖える、抱え主にも睨まれる、朋輩には嫌われるというようなわけで、つまりは自棄《やけ》半分で自分の部屋に火をつけ、どさくさまぎれに駈け落ちをきめて、一旦は廓を抜け出したんですが、やがて召し捕られました。それは天保十年のことで、本来ならば放火は火烙《ひあぶ》りですが、花鳥はなかなか弁の好い女で、抱え主の虐待に堪えられないので放火したという風に巧く云い取りをしたと見えて、こんにちでいえば情状酌量、罪一等を減じられて八丈島へ流されることになりました。それを有難いと思っていればいいんですが、女のくせに大胆な奴で、二年目の天保十一年に島抜けをして、こっそりと江戸へ逃げ帰ったんです。こんな奴が江戸へ帰って来て、碌なことをする筈はありません。いよいよ罪に罪を重ねることになりました」
「どんな悪いことをしたんですか」
「まあ、すぐに手帳を出さないで下さい。これはわたくしの若い時分のことで、後にわたくしの養父となった神田の吉五郎が指図をして、わたくしは唯その手伝いに駈け廻っただけの事なんですから、いちいち手に取るようにおしゃべりは出来ません。まあ、考え出しながら、ぽつぽつお話をしましょう」
天保十二年の三月二十八日から浅草観音の開帳が始まった。いわゆる居開帳《いかいちょう》であるが、名に負う浅草の観世音であるから、日々の参詣者はおびただしく群集した。奥山の驢馬《ろば》の見世物などが大評判であった。
その参詣のうちに、日本橋北新堀の鍋久という鉄物《かなもの》屋の母子《おやこ》連れがあった。鍋久は鉄物屋といっても主《おも》に鍋釜類をあきなう問屋で、土地の旧家の釜浅に次ぐ身代《しんだい》であると云われていた。先代の久兵衛は先年世を去って、当主の久兵衛はまだ二十歳《はたち》の若者である。久兵衛のほかに、母のおきぬ、女中のお直、小僧の宇吉、あわせて四人が浅草の開帳を拝みに出たのは、三月二十九日の陰《くも》った日で、家を出る
前へ
次へ
全29ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング