その奉公中に格別の悪いうわさも無かったらしく、お節はその娘に相違なかった。しかもそれだけの事では、どうにも手の着けようが無かった。
 八月十三日の夕七ツ(午後四時)頃である。半七は砂場の店に腰をかけて煙草を吸っていると、一人の小僧が暖簾《のれん》をくぐってはいってきた。彼は天ぷら蕎麦をあつらえて、同じく腰をかけた。どうも見たような小僧だと、半七は顔をそむけながら、横眼で睨むと、彼は鍋久の店の小僧であった。彼はやがて運んで来た天ぷら蕎麦を食ってしまって、更にあられ蕎麦を註文した。それを又食ってしまうまで半七は気長に待っていると、小僧は銭《ぜに》を払って出た。
 半七もつづいて暖簾《のれん》を出て、うしろから声をかけた。
「おい、小僧さん。鍋久の小僧さん」
 不意に呼ばれて、小僧はびっくりしたように立ちどまると、半七はすぐに其の手を据えた。
「おい、おれの顔を忘れたか。この間おれたちに茶を持って来たのはお前だろう」
 小僧も思い出したように、無言で半七の顔を見あげていた。
「おまえの名はなんというのだ」
「宇吉といいます」
「むむ、宇吉か。お前はなかなか景気がいいな。お店者《たなもの》の小僧のくせに、蕎麦屋へ来て天ぷらに霰《あられ》とは、ばかに贅沢をきめるじゃあねえか。その銭はだれに貰った。それとも盗んだのか、くすねたのか。はっきり云え」
 宇吉は黙っていた。
「さあ、正直に云え。ぐずぐずしていると、番屋へ引き摺って行って引っぱたくぞ」と、半七はその腕を一つ小突いて嚇し付けた。
「店の新どんに貰ったんです」と、宇吉は吃《ども》りながら云った。
「新どんとは誰だ」
「店の若い衆で、新次郎というんです」
「新次郎……。このあいだの晩、若いおかみさんを捉まえようとして、剃刀をぶつけられた奴だな。お前はふだんから新次郎に銭を貰うのか」
 宇吉はだまっていた。
「こいつ、強情な奴だ。さあ、来い。番屋の柱へ縛《くく》りつけて、絞めあげるから……。ええ、泣いたって勘弁するものか。この河童野郎め」
 半七は容赦なしに小僧を引き摺って行った。

     五

 近所の自身番へ連れ込まれて、宇吉は素直に申し立てた。彼はお節や新次郎から幾らかの小遣い銭を貰って、六月以来、山谷の里方《さとかた》へ五、六たび使いに行ったことがある。いつも手紙を届けるだけであるから、その用向きは知らないと云った
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