くら》むほどに門弟らのお面やお胴をなぐり付けた。時には気が遠くなってぐったりしてしまうと、そんな弱いことで武芸の練磨が出来るかと、引き摺り起して又殴られるのである。
 いかに師匠とはいいながら、あまりに稽古が暴《あら》いというので、門弟のうちには窃《ひそ》かに左内を恨む者も出て来たが、その当時の駒込あたりには他に然るべき師匠もいないので、不満ながらも痛い目を忍んでいるのであった。もう一つには前にもいう通り、師匠の御新造が愛想のいい人で、蔭へまわって優しく労《いた》わってくれるので、それを力に我慢しているのもあった。
 今夜その道場で、かの富士裏の怪談の噂が出たのである。左内もその噂はかねて聴いていたので、一座の門弟らにむかって「貴公たちはこの噂をなんと思う」という質問を提出したが、その席にある十七、八人のうちに確かに答える者がなかった。あいまいな返事をすると、師匠に叱り付けられる。それが恐ろしいので、一同はただ顔を見合わせているばかりであった。
「怪談などと仔細らしく云うが、世に妖怪|変化《へんげ》などのあろう筈がない。所詮《しょせん》は臆病者が風の音か、狐狸か、あるいは鳥の声にでも驚
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