呼ぶ声がきこえた。しかも今度は「岩下左内、待て、待て」というのである。自分の名をはっきりと呼ぶからには、風の音や梟の声の聞き誤りではない。左内は「おれを呼ぶのは誰だ、何者だ。ここへ出て来い」と呶鳴り返したが、声はそれには答えないで、左内の名を呼びつづけるのである。左内は焦《じ》れて、その声を追ってゆくと、さらにまた違ったが方角で「岩下左内やあい」と呼ぶのである。
喜平次と伊太郎は気味が悪くなって来た。世間で噂する通り、その声が普通の人間とは違っているばかりか、近いような、遠いような、悲しんで泣くような、嘲《あざけ》って笑うような、判断に苦しむ此の声の主は何物であろう。もし人間ならば足音がきこえる筈であるのに、それが或いは前に、あるいは右に、音も無しに移動するのも不思議である。そう思うと、二人は何となく怯気《おじけ》が付いて、足の進みもおのずと鈍《にぶ》って来たが、左内は頓着なしにその声を追って行った。怪しい声は嘲るように斯《こ》う云った。
「貴様たちに正体を見とどけられるような俺だと思うか。おれはここらに年|経《ふ》る白狐《びゃっこ》だぞ」
「畜生、よく名乗った。この古狐め」
左内
前へ
次へ
全37ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング