しいが、そんな意気地なしならあと廻しでよかろう。おれは岡崎屋の嫁の里へ行って調べて来たが、岡崎屋の伊太郎は師匠の女房と不義を働いていて、それがために嫁のおそよは離縁になったのだ。おそよは亭主に未練があると見えて、可哀そうに泣いていたよ」
「すると、伊太郎が師匠を殺《や》ったのかね」
「そうだろうな。だが、伊太郎一人の仕業じゃああるめえ。その晩一緒に出て行ったという池田の次男……喜平次という奴も手伝ったのだろう」
「そいつも伊太郎に抱き込まれたのかね」
「池田の屋敷はひどく逼迫《ひっぱく》していると云うじゃあねえか。おまけに厄介者の次男坊だ。二十四や五になるまで実家の冷飯《ひやめし》を食っているようじゃあ、小遣いだって楽じゃあねえ。おそらく慾に眼が眩《くら》んで師匠殺しの手伝いをしたのだろうな」
「ひどい奴らだ」と、亀吉は溜息をついた。「どうも世が悪くなったな」
「人殺しもいろいろあるが、親殺しは勿論、主殺しや師匠殺しと来ちゃあ重罪だ。だんだんに事が大きくなって来た。それにしても、ズウフラの一件はどういうのかな」
「ズウフラで師匠を誘い出したのじゃあねえかね」
「そうすると、もう一人の同類が無けりゃあならねえ」と、半七は薄く眼を瞑《と》じた。「もっとも大勢の中にゃあ抱き込まれる奴が無いとも限らねえが……。いかに世が悪くなったと云っても、師匠殺しの味方をする奴がそんなに幾人もあるだろうか。こりゃあ少し考げえものだ。一体この江戸じゅうにズウフラなんぞを持っている奴がたくさんある筈がねえから、その持ち主さえ判ればいいのだか……」
「ズウフラの方はまあ別として、ともかくもこれだけのことを寺社の方へ届けて、岡崎屋の伊太郎を引き挙げてしまおうじゃありませんか」
「だが、まだ確かな証拠はねえ。ほかの事と違って重罪だ。むやみなことが出来るものか。まあ、もうちっと考えよう」
 註文の酒肴を運んで来たので、二人は黙って飲みはじめた。時雨《しぐれ》はひとしきりで通り過ぎたが、秋の日はまったく暮れ切って、女中が燭台を持って来た。その蝋燭の揺れる灯を見つめながら、半七は暫く考えていたが、やがて思い出したように云った。
「今夜は殺された師匠の逮夜で、岩下の道場は昼間からごたごたしていたようだ。弟子たちも相当に集まるだろう。あの辺へ行って網を張っていたら、なにか引っかかる鴨があるかも知れねえ」
「そうしましょう」
 二人は怱々《そうそう》に飯を食ってここを出た。鰻縄手へゆく途中で、半七はまた云い出した。
「おい、亀。おれもだんだん考えたが、あのズウフラというものは筒にどんな仕掛けがあるか知らねえが、遠くの人を呼ぶ以上、相当に大きな声を出さなけりゃあならねえ筈だ。いくら人通りの少ねえ畑や田圃路だといって、道のまん中に突っ立って呶鳴っていちゃあ、すぐに種が知れてしまうから、少し距《はな》れた所から低い声で呼ぶに相違ねえ。つまり其の人のすぐうしろにいねえと云うだけのことで、そんなに遠いところから呼ぶのじゃああるめえと思う。こっちが気を鎮めて窺っていれば、大抵の見当は付く筈だのに、みんなびくびくして慌てるからいけねえのだ」
「まったくお前さんの云う通り、そんなに遠いところから呼ぶのじゃああるめえ。今夜ひとつ張り込んで見ましょうか」
「むむ。道場の模様次第で、張り込んでみてもいいな」
 そんなことを云いながら、二人は岩下の道場の近所まで引っ返して来た。縁の無い者がむやみに表門からはいるわけにも行かないので、杉の生垣のあいだから覗いてみると、座敷には障子が閉めてあるので好くは判らないが、その障子に映る影を見ても、相当に大勢の人々が集まっているらしく、僧侶の読経《どきょう》の声や鉦の音も洩れてきこえた。
「成程ごたごた押し合っているようですね」と、亀吉はささやいた。
「むむ。押し合っているだけじゃあ仕様がねえが、今になにか始まらねえとも限らねえ。まあ、もう少し我慢しよう」
 半七の言葉が終らないうちに、果たして一つの不思議が始まったのである。どこからとも知れず、怪しい低い声が座敷の障子にむかって呼びかけた。
「御新造さん……。岩下の御新造さん……。お経なんぞを上げるのはお止しなさい」
 その声に、おどろかされて、二人は俄かにあたりを見まわしたが、夜は暗いので見当が付かなかった。内でもそれに驚かされたらしく、二、三人の男が障子をあけて縁側に出て来たが、やはり正体を見とどけ得ないで、何かこそこそ云いながら引っ込んでしまった。半七らは耳をすましていると、闇の中で怪しい声が又きこえた。
「御新造さん……。御新造さん……。仏さまは浮かびませんよ。今に幽霊になって出ますよ」
 座敷の障子をあけて、今度は七、八人がどやどやと出て来た。彼らは暗い庭さきを透かし視て、怪しい声の方角を聞き定
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