た。屋台骨のしっかりしている家らしいと、半七はひそかに思った。
やがて女あるじというお勝が出て来て、これも丁寧に挨拶した。番頭もそばに控えていた。
「いや、別むずかしいことを訊くのじゃあありません。立ち話でも済むことですが、店さきではちっと工合《ぐあい》が悪いので、奥へ通して貰ったのです」と、半七はすぐに口を切った。「実はほかの事じゃあありませんが、こちらには娘さんが二人あるそうですね」
「はい。姉は下谷の方に縁付いて居ります」と、お勝は答えた。「妹は近所へ一旦片付きましたが……」
「じゃあ、それがおそよさんといって、白山前町の岡崎屋へ片付いたのですね。そこで、そのおそよさんが岡崎屋を不縁になったのは、同商売の競合《せりあ》いからだというような噂もありますが、そりゃあ本当ですか」
なんと返事をしていいかと云うように、お勝はそっと番頭をみかえると、番頭は引き取って答えた。
「まあまあ、そんなような訳でございまして……。御承知の通り、商売|忌敵《いみがたき》とか申しまして……。いえ、別に喧嘩をいたしたと云うのではございませんが……。つまり縁が無いと申すのでしょうか……」
その口ぶりと、女房の顔色とを見くらべながら、半七はしずかに云った。
「ねえ、番頭さん。わたしも御用で来たのだから、隠し立てをされちゃあ困る。決してお前さん達に迷惑は掛けねえから、みんな正直に云って貰おうじゃあありませんか。岡崎屋を不縁になったのは、何かほかに訳があるだろう。わたしはそれを訊きに来たのだ」
「お前さんのお言葉ですが、まったく同商売の顧客《とくい》争いというようなことから、双方の親たちのあいだが面白く参りませんので……」と、番頭は押し返して云った。
「親たちばかりでなく、当人同士の夫婦仲もなにぶん丸く参りませんので……」と、お勝もその尾に付いて云った。
おそよは去年の五月、十八で岡崎屋へ嫁に行って、その当座はまず無事であったが、半年ほど過ぎると、とかくに折り合いが悪く、とうとう此の三月に別れることになったので、ほかに仔細も無いと、母は説明した。
同商売の顧客争いから、親たちが不和になるというのは、随分ありそうなことである。当人同士の夫婦仲が悪いというのも珍らしくない。それで一応は離縁の理窟が立っているようであったが、半七はまだ不得心であった。
「どうもお前さん達じゃあ判らねえ。そのおそよという娘をここへ呼んでおくんなせえ。本人に逢って訊くとしましょう」
「いえ、その娘は唯今留守でございまして……」と、番頭はあわてて断わった。
「嘘をついちゃあいけねえ」と、半七は叱り付けるように云った。「それじゃあ仕方がねえから、わたしの方から口を切ろう。岡崎屋の息子には別に女がある。それが捫著《もんちゃく》のたねで不縁になった。早く云えばそうだろうね」
お勝と番頭はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたように顔を見あわせた。半七は黙ってその返事を待っていると、うしろの襖の外で何かの声がきこえた。それは女のすすり泣きの声であるらしいので、半七は衝《つ》と立ってその襖をあけると、果たしてそこには若い女が蒼白い顔を袖にうずめて泣き伏していた。
四
半七が伊丹屋を出て白山前へ引っ返したのは、その日ももう暮れかかる頃で、途中から秋時雨がさらさらと降り出して来た。
傘を買う程でもないと思ったので、半七は手拭をかぶって笹屋という小料理屋へ駈け込むと、亀吉はひと足さきに来て門口《かどぐち》に待っていた。
「とうとうぱら付いて来ましたね」
「この頃の癖で仕方がねえ」と、半七は先に立って二階へあがった。
座敷は狭い四畳半である。註文の酒肴が来るあいだに、亀吉は小声で話し出した。
「あれから吉祥寺裏へ行くと、親方は留守でしたが、長助という若い奴が鉢巻をしていましたよ。取っ捉まえて訊いてみると、どっかへ小博奕か何かに行って、ゆうべの四ツ過ぎころに富士裏を帰って来ると、例の声で呼ばれたそうです。おうい、おういじゃあねえ。女のような声で、もしもしと呼んだと云うのです。確かに女の声かと念を押すと、どうも女のようだったと云うのですが……。野郎、何だかおどおどしていて、どうもはっきりした事を云わねえのです。なにしろ、誰だと云いながら向って行くと、石のようなもので額をがん[#「がん」に傍点]とやられて、暫くは気が遠くなってしまったと云うだけで、詳しいことは自分でも覚えていねえと云うのです。小焦《こじ》れってえから、ちっと嚇かしてやったんですが、案外意気地のねえ野郎で、まったく嘘いつわりは云いませんからどうか勘弁してくれと、真っ蒼な顔をして泣かねえばかりに云うので、まあいい加減にして引き揚げて来ました」
「そうか」と、半七はうなずいた。「その長助という野郎も、唯は置かれねえ奴ら
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