「浅草の田町だな」
「はい。袖摺稲荷《そですりいなり》の近所で……」
「なんという男で、何商売をしている」
「宗兵衛と申しまして、金貸しを商売にして居ります。おもに吉原へ出入りをする人達に貸し付けているのだそうで……」
「じゃあ、小金《こがね》を貸しているのだな、身上《しんしょう》はいいのか」
「よくは知りませんが、不自由は無いようでございます」
「おめえは宗兵衛の女房を知っているのか」
「知って居ります」と、お光は云い淀みながら答えた。「あたしの家《うち》へ幾度も来たことがありますので……」
「おめえの家はどこだ」
「馬道《うまみち》の露路の中でございます」
「女房が何しに来た。暴れ込んで来たのか」
「旦那を迎えに……。初めのうちは旦那も素直に帰ったんですが、しまいには喧嘩を始めて……。おっ母さんも、あたしも困ったことがあります。この二日の晩にも、旦那がよっぽど酔っているところへ、おかみさんが押し掛けて来て、とうとう大喧嘩になってしまって……。旦那はおかみさんを引き摺り倒して、乱暴に踏んだり蹴ったりするので、あたし達もみかねて仲へはいって、ともかくもおかみさんを宥《なだ》めて表へ連れ出そうとすると、おかみさんはもう半気違いのようになっていて、鬼のような顔をして旦那を睨んで、この野郎め、おぼえていろ、あたしが死んでも、蝋燭が物を云うぞ……」
「蝋燭が物を云うぞ……。女房がそんなことを云ったのか」と、半七は訊き返した。
「云いました」と、お光はうなずいた。「そうして、あたし達を突きのけて、跣足《はだし》で表へ駈け出してしまいました。旦那は平気で冷《せせ》ら笑って、あいつは陽気のせいでちっと取り逆上《のぼ》せているのだ。あんな気違いに構うな、構うなと云って、相変らずお酒を飲んでいましたが、そのうちにふい[#「ふい」に傍点]と気がついたように、急ぎの用を思い出したから直ぐに帰ると云い出して、雨の降るなかを帰って行きました」
「そりゃあ何刻《なんどき》だ」
「弁天山の四ツがきこえる前でした」
「その後に宗兵衛はおめえの家《うち》へ顔を見せたか」
「一度も来ません」
「その仮橋から身を投げたのは宗兵衛の女房だということを、おめえはどうして知っているのだ」
「今も申す通り、あの晩おかみさんが出て行く時に、あたしが死んでも蝋燭が物を云う……。それが耳に残っているところへ、きのう
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