しかし今の半七に取っては、そんな詮議はどうでもよかった。彼は重ねて訊《き》いた。
「その晩はまあそれとして、その後にも別に気の付いたことは無かったかね」
「それがねえ、親分」と、久八は声を低めた。「実はすこし変だと思うことが無いでもないので……。その明くる日の朝、ようよう夜が明けた頃に、ひとりの男が仮橋の上に突っ立って、暫く水の上を眺めていたのです。その時はさのみ気にも留めませんでしたが、御承知の通り、その日は朝の四ツ頃から雨があがっていい天気になりました。そうすると、午過ぎになって又その男が橋の上に来て、今朝とおなじように水を眺めているのです、それが二日も三日も続いたので、いよいよ変だと思っていると……。ねえ、お前さん。きのう女の死体が揚がってみると、死体は丁度その男の立っていた橋の下あたりに沈んでいたわけで……。してみると、その男は何かの係り合いがあって、女がそこらに沈んでいることを知っていて、幾度も川を覗きに来たのじゃあないかと思われるのですが……」
「ふうむ。そんなことがあったのか。そこで、その男はどんな奴だ」
「もう四十近い、色の浅黒い、がっしりした男で、まんざら野暮《やぼ》な人でも無いようなふうをしていました。勿論、別に証拠があるわけじゃあありませんが、ひょっとすると死骸の女の亭主で……」
「爺さん、偉《え》れえ」と、幸次郎は啄《くち》を容《い》れた。「おれも其の話を聴いて、すぐにそう思った。世間によくある奴で、女は夫婦喧嘩でもして飛び込んだのかも知れねえ。それにしても、やっぱり判らねえのは金の蝋燭……。どうしてそんな物を抱えていたかな」
「それが判りゃあ仔細はねえ」と、半七はにが笑いした。「いや、判らねえところが面白いのかも知れねえ。その男はきょうも来たかえ」
「きょうはまだ見えないようです」と、久八は答えた。「死骸が揚がってしまったので、もう来ないのかも知れませんよ」
「むむ」と、半七は薄く眼を瞑《と》じて考えていた。「その男は西からか東からか、早く云えば日本橋の方から来たのか、本所の方から来たのか、それも判らねえかね」
「いつでも柳橋の方から来るようですから、あの辺の人か、それとも神田か浅草でしょうね」
「いや、ありがとう。御用とはいいながら、飛んだ邪魔をした。おい、爺さん。こりゃあ少しだが、煙草でも買いねえ。放し鰻の代りだ」
 久八に幾らかの銭《
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