ていたが、ふと思い当ることがあったので、続いて表へ出て見ると、そこには松吉と案内者の友吉のほかに、小作りの若い男が立っていた。
「おめえは元八じゃねえか」と、半七はだしぬけに声をかけた。
「へえ」と、男は恐れるように答えた。
「そうか。実はおめえにも逢いてえと思っていたのだ。おい、松。ここには構わずに、おめえ達は早く行って来てくれ」
二人を表へ追いやって、半七はおどおどしている元八を住職の居間へ連れ込んだ。元八はもう相手の身分を承知しているらしく、なんとなく落ち着かないような顔をして、半七の眼色をうかがっていた。
「おめえはここへ何しに来たのだ」と、半七は先ず訊《き》いた。
元八は黙っていた。
「おれ達のあとを尾《つ》けて来たのか。緑屋の爺さんから何か聞いたので、あとを尾けて来たのだろう。それともこの寺に何か探し物でもあるのか。おめえも小博奕の一つも打つ男だそうだから、人の前で物が云えねえ程のおとなしい人間でもあるめえ。はっきりと返事をしてくれ」
元八はやはり黙っていた。
「じゃあ、まあ、その詮議はあと廻しにして、これから俺の訊くことに応えてくれ」半七は重ねて云った。「緑屋の爺さんの話を聞くと、おめえは十五夜の晩に田圃《たんぼ》をあるいていると、頬かむりをした若い女に逢って、それを神明さまの近所まで送って行く途中で、おめえがその女に悪ふざけをした。そこへ二人の虚無僧が出て来て、おめえはひどい目に逢わされた。話の筋はまあそうだね。それからおめえは三人のあとを付けて行くと、三人はこの寺へはいった……。そこで、おめえはどうした」
「帰りました」と、元八は低い声で答えた。
「寺へはいるのを見届けただけで、すぐに帰ったのかえ」
「帰りました」と、元八は又答えた。
「真っ直ぐに帰ったかえ。確かに帰ったかえ」と、半七は相手の顔を睨むように見た。「緑屋の爺さんは欺されても、おれは欺されねえ。おめえは何処までも三人のあとを尾《つ》けて、この寺のなかまではいり込んだろう。隠すと、おめえの為にならねえぜ。正直に云え。それから何か立ち聴きでもしたか」
「まったく直ぐに帰りましたので……。あとの事は知りません」
「こいつ、道楽者のくせにあっさりしねえ野郎だな。やい、元八。てめえはあのお鎌という婆さんから鼻薬を貰って、口を拭《ぬぐ》っているのだろう。くどくも云うようだが、緑屋の爺さんと此の半七とは相手が違うぞ。その積りで返事をしろ」
頭から嚇されて、元八は蒼くなった。半七は衝《つ》っと寄って、その片腕をつかんだ。
「さあ、野郎。この腕に縄が掛かるか、掛からねえかの分かれ道だ。返事をしろよ。返事をしねえかよ」
掴んだ腕をゆすぶられて、元八はいよいよふるえた。
「親分の仰しゃる通り、実は三人のあとを尾けて……」
「寺のなかまではいり込んだな。それからどうした」
「三人は案内も無しに上がり込みました」
「坊主はいたのか」
「住職、納所もいました。三人は住職の居間へ通って……」
「この六畳だな」
「そうです。住職も納所も虚無僧も女も、みんな一緒に寄り集まって、ここで酒を飲み始めました」
「おめえはそれを何処で覗いていた」
「庭から廻って、あの大きい芭蕉の蔭で……。すると、だしぬけに袂を掴んで引っ張る奴があるので、驚いて振り返ると……」
「お鎌婆さんか」と、半七は笑った。
「お鎌はわたしをむやみに引き摺って、表の玄関の方まで連れ出して、わたしの手に一|歩《ぶ》の金を握らせて、さあ早く出て行け、ぐずぐずしているとお前の命が無いというので……。わたしも何だか気味がわるくなって、忽々《そうそう》に逃げて帰りました」
「おめえはお鎌と心安くしているのか」
「別に心安いというわけでもありませんが、あの婆さんは小金を持っているので、時々ちっとぐれえの小遣いを借りることもあるのです。いえ、なに、借り倒すなんていう事は出来ません。あの婆さん、なかなか厳重ですから……」
云いかけて、元八は眼口《めくち》を撲つ藪蚊を袖で払った。一生懸命の場合でも、ここらの名物の藪蚊には彼も辟易《へきえき》したらしい。半七も群がって来る藪蚊を防ぐ術《すべ》がなかった。
四
「そこで、話はあと戻りをするが、おめえは何でおれ達のあとを尾けて来たのだ」と、半七は訊《き》いた。
それに就いて、元八はこう答えた。彼はさっき、緑屋の近所を通りかかると、店の女中たちに送られて出る二人の客のすがたを見た。元八も道楽者であるだけに、この二人を唯の客ではないらしいと鑑定して、女中にそっとたずねると、彼らは三河町の半七とその子分であるという。それを聞くと、彼は俄かに一種の不安に襲われて、亭主の甚右衛門に相談するひまも無く、すぐに半七らのあとを追って、影のように付け廻していたのである。但し、自分はお鎌から一歩の金を貰っただけで、ほかには何の係り合いも無いと弁解した。
「おめえは其の後にお鎌に逢ったか」と、半七は又|訊《き》いた。
「ここの井戸から四人の死骸が揚がったという評判を聞いて、わたしもすぐに駈け着けてみると、お鎌も来ていました。なにしろ最初に死骸を見付けた本人ですから、名主さん達からいろいろのことを訊かれていましたが、わたしは何だか気が咎めるので、なるたけ後の方へ引きさがって、遠くから覗いていました。その時ぎりでお鎌に逢ったことはありません」
「死骸を見つけたのは、十五夜から四日目だというじゃあねえか。そのあいだに、一度もお鎌に逢わなかったのか」
「逢いませんでした」
この時、庭口から松吉が大急ぎで帰って来た。八月の秋の日はまだ暑いので、彼は襟もとの汗をふきながら云った。
「親分、お鎌はいませんよ」
「家《うち》にいねえのか」
「荒物屋の店は空明《がらあ》きで、何処へ出て行ったのか近所の者も知らねえと云うのです。なにしろ、こっちの方も気になるので、案内の男だけを見張りに残して置いて、わっしは一旦引っ返して来たのですが、どうしましょう」
「どうにも仕方があるめえ」と、半七は舌打ちした。「下司《げす》の知恵はあとから出る。こうと知ったら早くあの婆を引き挙げればよかった。そこで、頼んだ物を持って来たか」
「店へはいって探してみたら、毎日の売り揚げを付けて置く小さい帳面がありました。これじゃあ役に立ちませんか」と、松吉はふところから藁半紙の帳面を出してみせた。
「むむ。なんでもいい」
半七はその帳面を受け取って、かの結び文の「十五や御ようじん」と引き合わせると、松吉も縁へ這いあがって覗き込んだ。
「成程、似ているようですね」
「似ているじゃねえ。確かに同筆だ。この寺へはいろいろの奴らが寄り集まって来て、その置手紙を木魚の口へ投げ込んで置いて、なにかの打ち合わせをすることになっているらしい、そこまでは先ず判ったが、さてこの十五夜御用心……。誰に用心しろと云うのかな」
云いかけて、又なにか思い出したように、半七は向き直った。
「おい、元八。おめえはその芭蕉のかげで立ち聴きをしていて、なんにも話し声は聞えなかったか」
「声が低いので、よく聴き取れませんでした。ただ一度、全真という納所坊主がこの縁側から月をながめて、ああいい月だ、諏訪《すわ》神社の祭礼《まつり》ももう直ぐだなと云うと、住職の全達が笑いながら、諏訪の祭りが見たければ直ぐ出て行け、十月までには間に合うだろうと云って、みんなが大きい声で笑っていました」
「諏訪の祭り……信州かな」と、松吉は口を出した。
「いや、信州の諏訪は十月じゃあるめえ」と、半七は打ち消した。「十月の祭りならば、長崎の諏訪だろう。九州一の祭りで、たいそう立派だそうだ。そんな話を誰かに聞いたことがあるようだ。むむ、長崎か……長崎か……」
長崎を口のうちで繰り返した後に、半七は証拠の結び文と売揚げ帳をふところへ押し込んだ。
「いつまでここに罠《わな》をかけていても、化け猫や狐が安々と掛かって来そうもねえ。ともかくも一旦引き揚げて緑屋へ行くとしよう」
「荒物屋の方はどうしますね」と、松吉は訊《き》いた。
「あの男にばかり任かしちゃあ置かれねえ。おめえも行って気長に張り込んでいろ。俺もいずれ後から行く。元八はいつまた呼ぶかも知れねえから、家《うち》へ帰っておとなしくしていろよ。決して外へ出ちゃならねえぞ」
元八は幾たびか頭を下げて、逃げるように出て行った。半七も松吉もつづいて出た。
「あの野郎はどうでした。妙におこ[#「おこ」に傍点]付いているじゃありませんか」と、松吉は小声で云った。
「道楽者と云ったところで、安い野郎だ。あいつ案外の正直者だから、なにかの囮《おとり》になるかも知れねえ。まあ、当分は放し飼いだ」
途中で松吉に別れて、半七は再び緑屋の門《かど》に立った。
「又お邪魔に出ました。日の暮れるまで往来に突っ立ってもいられねえから、軒下を借りに来ました。どうぞ構わねえで置いて下さい」
勿論それはひと通りの挨拶で、緑屋でも構わずに捨てて置く筈はなかった。半七は愛想よく迎えられて再び二階の小座敷へ通されると、甚右衛門もあとから上がって来た。
「どうだね。お前さんの眼利きは……。たいてい見当は付いたかね」
「おさき真っ暗で眼も鼻も利きません」と、半七は笑った。「なにしろ日が暮れてから、もう一度出直して見たいと思います」
「じゃあ、ゆっくり休んで行きなせえ。古寺へ化け物の詮議に行くのは、やっぱり夜の仕事だろうな」と、甚右衛門も笑った。「そこで、どうだね。元八の奴を呼びにやろうか」
「元八は来ましたよ」
「寺へか。お前さん達のあとを尾けて……。はは、馬鹿野郎め、定めし嚇かされたろうな」
「嚇かしもしねえが、ちっとばかり口を取って置きましたよ。そこで、ちょいと伺いたいのですが、ここらに長崎者はいませんかね」
「長崎者……。そんな遠国《おんごく》の者は住んでいねえようだが……。いや、ある、ある。この近所で荒物屋をしているお鎌という女……。それ、さっきも話した通り、古井戸の死骸を最初に見つけ出した女だ。長崎だかどうだか確かには知らねえが、なんでも遠い九州の生まれだと聞いたようだ。それがどうかしたのかえ」
「いや、どうということもねえのですが、そのお鎌というのが影を隠したらしいので……。お前さんも知っていなさるか知らねえが、元八は十五夜の晩に、あの寺でお鎌から一歩貰ったそうですよ」
「へええ」と、甚右衛門は眼を丸くした。「あの野郎、おれには隠していやあがったが、そんな事があったのかえ。してみると、あいつもいよいよ係り合いは抜けねえ。お鎌という女も唯は置かれねえ奴らしいな」
「そうでしょうね」と、半七は煙草を吸いながら考えていた。
秋の日もやがて暮れかかって、再び酒と肴が持ち出されたが、半七は酒を辞退して夕飯を食った。その箸をおいて茶を飲んでいる処へ、松吉が詰まらなそうな顔をして帰って来て、お鎌はいまだに姿をみせないと云った。恐らく再び帰らないのであろうと、半七は想像した。
「おれもそうだろうと思った。おめえもここで夕飯の御馳走になれ。仕事はこれからだ」
裏の田圃に秋の蛙《かわず》が啼き出して、夜風が冷々《ひえびえ》と身にしみて来た頃に、半七と松吉は身支度をして緑屋を出た。
「松、しっかりしろよ。さっきも云う通り、今夜の怪物は化け猫に古狐だ。引っ掻かれねえように用心しろ」と、半七は笑いながら先に立った。
竜濤寺に行き着いて、二人は暗い本堂のまん中に坐り込んだ。あいにくに宵闇の頃であるのが、二人に取っても都合がいいようでもあり、悪いようでもあった。半刻《はんとき》ほども黙って坐っていると、藪蚊が四方から物凄いほどに唸って来た。
「ひどい蚊だね」と、松吉は左右の袖を払いながら云った。「これじゃあ遣り切れねえ」
「ひる間でさえもあの通りだ。夜は蚊責めと覚悟しなけりゃあならねえ」と、半七は云った。「まあ、我慢しろ。蚊ばかりじゃあねえ、今に化け物が出るだろう」
蚊の声、虫の声、古寺の闇はいよいよ深くなって屋根の上を五位鷺《ごいさぎ》が鳴いて通った。二人は根気よく坐り
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