います」
 お徳の顔色は俄かに動いて、おもわず台所の方をみかえると、そこでは大きい魚の跳ねるような音がきこえた。女客も俄かに耳を引っ立てた。
「あ、奥で何か跳ねるような……」
 お徳はやはり黙っていた。
「唯今申し上げたことで、何かお心あたりのようなことはございますまいか」と、女はしずかに云った。
「別にどうも……」と、お徳はあいまいに答えたが、その声は少しふるえていた。
「まったくお心あたりはないでしょうか」
 台所ではまた魚の眺ねる音がきこえた。女はその物音のする方を伸びあがるようにして覗《のぞ》きながら、また云い出した。かれの声も少しふるえていた。
「お願いでございます。お心あたりがございますならば、どうぞ教えていただきたいのでございますが……」
 その訴えるような声音《こわね》が一種の恨みを含んでいるらしくも聞えたので、お徳はまた俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。さっきからの話を聴いて、お徳も内々は思いあたることが無いでもなかったのである。実を云うと、夫の藤吉はこのあいだから彼《か》の江戸川のどんど[#「どんど」に傍点]橋のあたりへ忍んで行って、禁断のむらさき鯉の夜釣りをし
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