半七捕物帳
柳原堤の女
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堤《どて》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)市橋|壱岐守《いきのかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした
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一
なにかの話から、神田の柳原の噂が出たときに、老人はこう語った。
「やなぎ原の堤《どて》が切りくずされたのは明治七、八年の頃だと思います。今でも柳原河岸の名は残っていて、神田川の岸には型ばかりの柳が植えてあるようですが、江戸時代には筋違橋《すじかいばし》から浅草橋までおよそ十町のあいだに高い堤が続いていて、それには大きい柳が植え付けてありましたから、春さきの眺めはなかなかよかったものです。柳原の柳はなくなる、向島の桜はだんだん影がうすくなる、文明開化の東京はどうも殺風景になり過ぎたようですね。いや、むかし者の愚痴ばかりでなく、これはまったくのことですよ。今のお若い方はおそらく御承知ないでしょうが、あの堤に清水山《しみずやま》という小さい岡のようなものがありました。場所は筋違橋と柳の森神社とのあいだで、神田川の方にむかった岡の裾に一つの洞穴《ほらあな》があって、その穴から絶えず清水をふき出すので、清水山という名が出来たのだそうです。それだけのことならば別に仔細はないのですが、むかしからの云いならわしで、この清水山にはいろいろの怪異《かいい》があって、迂濶にはいると禍いがあるということになっているので、長い堤のあいだでも、ここだけは誰も近寄るものがない。一体この堤の草は近所の大名屋敷や旗本屋敷で飼馬《かいば》の料に刈り取ることになっていまして、筋違から和泉橋《いずみばし》のあたりは市橋|壱岐守《いきのかみ》と富田|帯刀《たてわき》の屋敷の者が刈りに来ていたんですが、そのあいだには例の清水山があるので、どっちも恐れて鎌を入れない。つまり筋違橋と和泉橋と両方の端から刈り込んで来て、まん中の清水山だけを残しておくので、わずか三間か四間のところですけれども、それだけは上から下まで、いつも高い草が茫々と生いしげっていて、気のせいか何だか物すごいように見える。そこに一つの事件が出来《しゅったい》したんです」
慶応初年の八月初めである。ここらで怪しい噂が立った。誰が云い出し
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